どちらかと言えば、ビジネス志向だったPC-8801/mkIIでしたが、PC-8801mkIISRでは、完全にホビー向けに路線が変更されました。それに伴い子会社である日本電気ホームエレクトロニクス(1983年に新日本電気から社名変更された)へ移管されました。
メモリアクセスの足を引っ張っていたテキストVRAMを独立させたり、グラフィックVRAMへのアクセスにサイクルスチール方式を採用して速度低下を抑える設計になっています。
512色中8色のグラフィックが使えるV2モードが追加され、従来の互換モードはV1モードと呼ばれるようになりました。
前面カバー内にあるスイッチでN-BASICモード(PC-8001互換)とV1モード(PC-8801互換)とV2モードに切り替えることが出来ます。更にV1モード時の動作速度を変更するスイッチもありました。PC-8801mkIISRでは、様々な高速化が行われていますが、アプリケーションソフトによっては問題が起きることがあったため、従来と同じ速度で動作するように切り替えるためのスイッチです。
PC-8801mkIISRのCPUは、Z80A互換のNEC μPD780C-1(4MHz)でメインRAMが64KB、グラフィックVRAMが48KB、テキストVRAMが4KB、FDDのサブCPU(メインCPUと同じμPD780C-1の4MHzです)用にも16KBのRAMも搭載されていたようです。
ROMは、N88-BASICに64KB、N-BASICに32KB、CG-ROMに2KB、FDDのサブCPU用に2KBです。
表示能力は、テキストが80、40文字×25、20行・512色中8色、グラフィックは、従来のPC-8800シリーズのグラフィックモードに640×200ドット・512色中8色などのアナログRGB対応のV2モードが追加されています。
従来のPC-8801/mkIIでは、Beep音しか搭載されていませんでしたが、ヤマハのFM音源チップYM2203(OPN)が採用され、FM音源3音+矩形波3音+ノイズ1音のサウンド機能が追加で標準搭載されました。
当時のNECでSRの付く機種は、YM2203(OPN)のFM音源を搭載した8ビットホビーパソコンでしたが、PC-8000シリーズとPC-8800シリーズにもSRモデルが登場したことにより、PC-6000シリーズ、PC-6600シリーズ、PC-8000シリーズ、PC-8800シリーズとNECの8ビットホビーパソコンのラインナップが飽和状態になってしまったように思います。
結果的にPC-8801mkIISRとその後継機達がホビーパソコン市場で大きなシェアを獲得することになりますが、同じ会社から複数のホビーパソコンを発売して競争させるというやり方には、ユーザーとしては疑問を感じましたね。他のSRシリーズを買ったユーザーの中には、もう少し頑張ってPC-8801mkIISRを買っておけば良かったと後悔した人も居たのではないでしょうか。
PC-8801mkIISRが発売された1985年の9月には、SRの筐体左側にモデムフォンを搭載したPC-8801mkIITRが追加でラインナップされました。
同年12月には、早くもマイナーチェンジが行われ、廉価版のPC-8801mkIIFRと2D/2HDに対応したFDDを搭載したPC-8801mkIIMRが登場しました。FDDが2基搭載されたPC-8801mkIIFR model 30の価格は、同時期に発売されていたライバルのSHARP X1 turbo IIと同じ価格の178,000円(FDD 1基搭載のmodel 20は148,000円、FDD無しのmodel 10は99,800円、MRは238,000円)になっています。PC-8801mkIISRシリーズの廉価機種であるFRの登場は、PC-8001mkIISR、PC-6601SR、PC-6001mkIISRといった下位機種に事実上の引導を渡したようなもので、NECとしてもこれ以降は、8ビットパソコンをPC-8800シリーズ1本に絞っていくという方針になったようです。
1986年11月には、CPUにZ80H相当のμPD70008AC-8(8MHz)を搭載して高速化されたPC-8801FH/MH(FDD2基搭載のFH model30が168,000円、MHが208,000円)が発売されました。クロック周波数は4MHzと8MHzに切り替え可能となっています。このモデルから、機種名からmkIIが無くなりました。
1987年10月には、音源チップがYM2203の拡張版チップ(ソフトウェアレベルでの互換性あり)であるYM2608に変更され、ステレオFM音源6音+リズム6音+SSG3音+ADPCM音源1音(波形メモリ256KB)へとサウンドが強化されたPC-8801FA/MA(FAが168,000円、MAが198,000円)が発売されました。このサウンド機能は、サウンドボード2と呼ばれる拡張ボードで従来機でも利用できます。
1988年10月には、家庭用テレビに接続可能な廉価モデルのPC-8801FEが129,000円で発売されました。サウンドは、サウンドボード2相当ではなく、SRと同じFM3音+SSG3音+ノイズ1音のOPN相当です。このモデルでは、サウンドボード2は、専用スロットに装着する専用品(39,800円)となり、N88-BASICのROMは内蔵していますが、Disk BASIC類はオプションとなりました。また、同時期にMAのマイナーチェンジモデルPC-8801MA2も168,000円で発売されています。
1989年11月には、PCエンジン用としても使えるCD-ROMドライブが搭載されたPC-8801MCが発売されました。このモデルは、タワー型の筐体で上面にCD-ROMドライブを搭載しています。CD-ROMドライブを搭載したmodel2が199,000円、CD-ROMドライブ無しのmodel1が169,000円です。PCエンジン用のCD-ROM2(ロムロム)を持っている人は、それを搭載することも可能です。また、同時期にFEのマイナーチェンジモデルPC-8801FE2も119,000円で発売されています。これらの機種では、8MHzモード時のメモリアクセスがノーウェイトで動作するよう改良され、クロック切り替え等が手動の切り替えスイッチから、PCキーでセットアップより変更する方式に変更されたようです。
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ホビー志向となったPC-8801mkIISR以降 (Wikipedia) |
https://ja.wikipedia.org/wiki/ホビー志向となったPC-8801mkIISR以降 |
アタリ社は、ノーラン・ブッシュネル氏とテッド・ダブニー氏が1972年に創業した業務用ビデオゲーム(アーケードゲーム)や家庭用ゲーム機の開発会社でした。「ポン」の後にヒットした「ブレイクアウト」の開発には、スティーブ・ジョブズ氏とスティーブ・ウォズニアック氏の二人が関わっていたことでも有名です。二人は、回路の部品点数を減らす作業を担当したようです。
1976年にアタリ社は、家庭用ゲーム機Atari VCS(後のAtari 2600)を開発する資金を調達するため映画会社のワーナー・コミュニケーションズ(1990年にタイム社と合併が終了してタイム・ワーナーとなります)の傘下となりました。
Atari VCSは、1977年に発売されたものの、発売当初はあまり売れなかったため、ワーナー社は、繊維業界の営業方面で実績のあったレイモンド・カサール氏をヘッドハンティングして家庭用ゲーム部門のトップに据えました。
その後、ブッシュネル氏は、Atari VCSを巡ってワーナー側と衝突し解任されてしまいました。
カサール氏が実権を握ったアタリ社には、綱紀粛正の嵐が吹き荒れ、アタリ社の自由な風紀を好む社員は退職していきます。今や最大手ゲーム会社のアクティビジョン社もこのとき不満を抱いたアタリ社のゲーム開発者(ラリー・カプラン氏、デビッド・クレーン氏、アラン・ミラー氏、ボブ・ホワイトヘッド氏など)らによって設立されたゲーム会社です。
Atari VCSは、サードパーティーによるゲームソフトの開発・販売を可能にしたことや1980年に発売されたスペースインベーダーの移植版が大ヒットするなどして、家庭用ゲーム機として大成功をおさめます。
しかし、1977年発売のハードであったため、性能が低く、ゲームソフトのクオリティコントロールも行われなかったこともあり、ゲームソフトの粗製濫造が起きてしまいます。
その結果、1982年末にアタリショック(Video game crash of 1983)と呼ばれる家庭用ゲームソフト市場の崩壊に至りました。ちなみにゲームソフト市場全体が崩壊したわけではなく、Atari VCSを中心とした家庭用ゲーム機ソフトの売上が壊滅的に落ち込んだだけです。この現象は、VIC-20、Commodore 64、Atari 8ビット・コンピュータ、TI-99/4Aといったホームコンピュータ市場に家庭用ゲーム機ユーザーが流れたということだと思われます。これらのホームコンピュータは、Atari VCSよりも高性能だったため、より高度なゲームが楽しめるこれらのハードへユーザーが移ったのでしょう。
アタリショックを受けて、アタリ社のカサール氏は1983年7月に解任され、後任のジェームズ・モーガン氏に引き継がれました。親会社のワーナーは、リストラを行い、1984年には家庭用ゲーム機部門とパソコン部門の切り離しを決定し、アタリ社は、アーケードゲーム部門と家庭用ゲーム・パソコン部門の2社に分割されます。
この頃、コモドール社のジャック・トラミエル氏は、社内政治に敗北してコモドールの社長を辞任した後、トラメル・テクノロジーという新会社を設立しました。この時、コモドール社の開発者の多くを引き抜いています。この中にCommodore 64の開発者の一人、シラーズ・シブジ氏が居ました。彼は、チーフエンジニアとして抜擢され、コードネーム「RBP」(Rock Bottom Price:底値)プロジェクト(後のAtari520ST)の開発を主導しました。しかし、後にこのことがトラブルとなります。
アタリ社の家庭用ゲーム・パソコン部門を購入したのが、トラミエル氏のトラメル・テクノロジーです。
トラメル・テクノロジーは、アタリの家庭用ゲーム・パソコン部門を買収してアタリコープと社名を変更します。
ちなみにこの時、ワーナー傘下のアーケードゲーム部門に出資したのは、日本のナムコです。その際、アタリのアーケードゲーム部門は、アタリゲームズと社名が変わっています。ちなみにアタリゲームズのコンシューマ部門として設立された子会社がテンゲン(Tengen Inc.)です。日本でも日本法人の株式会社テンゲンから、「ガントレット」や「マーブルマッドネス」といったアーケードゲームの家庭用ゲーム機への移植版が発売されていました。
トラメル・テクノロジーに多くの技術者を引き抜かれたため、コモドール社は、技術者不足で新ハードを開発することができない状態でした。そこで、コモドール社は、元コモドールの技術者4人を訴えてアタリコープから、新ハードが発売できないよう妨害しました。そして、アミーガ社が開発していた新型パソコン・コードネーム「Lorraine」を買い取りコモドールブランドで販売しようとしました。
しかし、アミーガ社は、元々、Atari 2600やAtari 8ビット・コンピュータのカスタムチップを開発した技術者の一人であるジェイ・マイナー氏が新しいチップセットのパソコンを開発しようと起ち上げた会社(Hi-Toro、後にAmiga Corporation)でアタリのゲーム機用にジョイスティック等を販売していましたが、チップセットの開発に必要な資金を使い果たしたため、アタリ社より資金提供がされていました。アタリ社は、このチップセットを使用した新しいパソコン(コードネーム「Mickey」)を発売するつもりだったようです。しかし、前述したアタリショックにより家庭用ゲーム・パソコン部門を売却します。
また、技術者引き抜きの件でコモドールに訴訟されていたアタリコープは、この件で逆にアミーガ社を訴訟し、コモドールから新ハードが発売されるのを妨害しました。
このような経緯から、本来コモドールから発売されるはずだったAtari STは、アタリコープから発売され、逆にアタリが資金提供して開発されていたチップセットを持つAmigaがコモドールから発売されることになりました。訴訟合戦で双方の発売が遅れた点も両者にとってはマイナスだったと思います。Atari STのハードウェア設計は、トラミエル氏がコモドールで失脚した時点でほぼ終了していたようで、訴訟により発売が遅れたものの、コモドールから発売されるAmiga 1000よりも若干早く発売することができました。
Atari STのSTは、「Sixteen/Thirty-two」の略で、CPUのモトローラMC68000の構造(外部バス16ビット、内部バス32ビット)を意味していると言われています。16ビットパソコンと32ビットパソコンの中間的な存在という意味もあったのかもしれませんね。
元の設計では、ナショナル・セミコンダクターの32ビットCPU「NS32032」を採用する予定だったようですが、必要な数量の供給が期待できず、価格も合わなかったため、モトローラのMC68000に変更されたようです。NS32032は、信頼性に問題があったため人気が無く最終的にMC68000よりも安価で販売されたようです。
Atari STは、ハイスペックなパソコンでは珍しいキーボードと本体が一体になった形状のパソコンでした。
Atari STの最初に発売されたモデルであるAtari 520STのハードウェアは、CPUにモトローラMC68000(8MHz)、RAMは標準で512KB(最大4MB)、ROMは初期モデルが16KBでOSはフロッピーディスクドライブ(FDD)から読み込む仕様でした。後にOSをROM化(起動にLanguage Diskというフロッピーディスクは必要でした)したため、520STM以降の機種では、ROM容量が192KBになっています。ROM化されたOSは、起動時にRAMに読み込まれる方式なので、起動はFDDに比べ高速になりましたが、FDDから読み込んだ時と同じようにメモリがOSの分だけ圧迫されました。
画像転送登録チップST Shifter、汎用論理ユニットST GLU、メモリ管理ユニットST MMU、ダイレクトメモリアクセスコントローラ(DMAC)ST DMAといったカスタムチップの他、MC6850P ACIA、MC68901 MFP、WD-1772-PH、HD6301V1といった汎用チップを組み合わせて入出力の制御を行っていたようです。
表示能力は、グラフィックが320×200ドット512色中16色、640×200ドット512色中4色、640×400ドット512色中単色です。テキスト表示は、ビットマップ方式(ハードウェア的にはビットプレーンだったようです)でグラフィック画面に描画されます。
サウンド機能は、ヤマハのYM2149F(PSG互換)が採用され、矩形波3音+ノイズ1音です。YM2149Fは、FDDの信号生成やプリンターポートの制御にも利用されていたようです。
当初、Atari STのFDDは、3.5インチで片面倍密度倍トラックの1DDドライブで360KBまでのデータが保存できました。また、初期のAtari 520STでは、FDDは外付けドライブです。1040STFモデルから内蔵の3.5インチ2DDドライブとなり、720KBまでデータが保存できるようになりました。
Atari STハードウェアの大きな特徴としては、MIDIポートが標準装備されている点です。そのため、ミュージックシーケンサーや楽器のコントローラーとしても活用されたようです。
OSは、外部から調達することになり、マイクロソフト社とデジタルリサーチ社が候補に挙がったようです。 結局、開発期間の関係でデジタルリサーチの後にGEM(Graphical Environment Manager)となるCrystalが採用されました。もし、このパソコンのCPUがi80286だったら、マイクロソフトのWindowsが採用されていたかもしれませんね。
GEMは、CP/MやDR-DOS向けのGUI環境としてデジタルリサーチが当時開発中だったOSです。
しかし、Intel系のプラットフォームで動作させるものだったため、Atari ST用に移植する必要がありました。
Atari STでは、GEMDOSというCUI(キャラクタ・ユーザ・インターフェース)ベースのOSにGEMのGUI環境を実装しています。この2つをまとめてTOS(The Operating System、当時の雑誌を読んでみたところ「Tramiel Operating System」という表記がありました)と呼びます。
GEMのGUIは、外観がMacintoshのSystemに似ていたためジャック・トラミエル氏の頭文字を取って「Jackintosh」と呼ばれることもあったようです。
Atari STは、同時期にモトローラMC68000を搭載したライバル機よりもコストパフォーマンスが高かったため、特にヨーロッパ市場では成功したようです。
後にライバルとなる、Amigaシリーズも初期のモデルはAtari STよりも高価でした。(1987年に登場したAmiga500でAtari STのコストパフォーマンスに追いついた)
ヨーロッパ市場向けの260STも販売されました。元々は、メモリが256KBになった廉価モデルでしたが、1MBのメモリを搭載した520ST+が発売されたため、512KBのメモリになったようです。また、128KBの130STも発売する予定(1985年のCESで発表された)だったようですが、こちらはメモリが少なすぎてOSを動作させることが精一杯で実用的ではなかったため発売中止になったようです。
1985年末には、RFモジュレーターを搭載した520STMが発売されました。この機種は、家庭用テレビに接続可能になっています。また、この機種からOSがROM化されたようです。
1986年には、1MBのメモリを搭載した1040STFが発売されました。この機種から外付けだった電源ユニットとFDDが内蔵され、FDDが2DD対応となります。(しかし、ごく一部のロットは、1DDのFDDが搭載されていたようです)同年に発売された520STFMも同様に電源や2DD対応のFDDが内蔵されたデザインとなりました。STの後のFがFDD内蔵、MがRFモジュレーター搭載を意味しているようです。STの前の数字は、Atari 8ビット・コンピュータ・シリーズと同様にメモリ容量を表しています。
1989年には、カラーパレットが512色(9ビット)から4096色(12ビット)に増えるなど、主にグラフィック機能を強化したSTE(ST Enhanced)シリーズが発売されました。しかし、従来機種との互換性に若干の問題が発生したようです。また、同年には、STacyというラップトップ型のポータブルタイプがラインナップされました。
1992年には、Atari STシリーズの後継機Atari Falcon 030が発売されました。1990年に発売されたAtari TT030の家庭用バージョンといった製品でCPUにモトローラMC68030(16MHz)が搭載され、RAMは標準で4MB(最大14MB)、ROMは512KBでグラフィックは、262,144色(18ビット)のカラーパレットとなり、VGAと同じ640×480ドット・16色をサポートしました。しかし、翌年には販売が中止され、アタリはコンピュータ市場から撤退、イギリスのフレアテクノロジー(シンクレアリサーチからスピンアウトした社員が設立した会社です)から購入した「Konix Multisystem」の技術を流用して開発した次世代ゲーム機「Atari Jaguar」に注力したようです。
また、Atari STシリーズは、ハイエンド向けのモデルも投入され、1987年にAtari Mega ST 2/4として登場しました。(後にMega ST 1も登場しました。ちなみに数字はメモリ搭載量を表します)これらのモデルの基本的なスペックは、Atari STと同じですが、キーボードが分離されたセパレートタイプで、標準搭載のメモリが多く、拡張性も高くなっています。
1990年には、32bitのAtari TT030(STがSixteen/Thirty-twoの略なので、TTはThirty-two/Thirty-twoの略だと思われます)が発売されましたが、この時点では、Atari Falconは発売されておらず、EWS(Engineering Workstation)として発売されたようです。ハードディスクが内蔵できるようになっており、OSもTOSの他にUNIX系のOSが使えたようです。CPUは、モトローラMC68030(32MHz)でFPUのMC68882も搭載されていました。
1991年には、Atari Mega STEが発売されました。このモデルは、ST EnhancedシリーズのMega ST版といったモデルで、Atari TTと同じケースに収められていました。また、最後のAtari STEシリーズでもあります。
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Atari ST (Wikipedia) |
https://ja.wikipedia.org/wiki/Atari_ST |
Enterprise 64/128は、イギリスのIntelligent Software社が開発し、Enterprise Computers社から1985年6月23日に発売されたZ80搭載8bitホームコンピュータです。
このパソコンの開発経緯は、1982年に香港の貿易会社Locumals社がイギリスのIntelligent Software社に開発を委託したところから始まっているようです。開発コードはDPCでした。
Intelligent Software社は、スコットランド代表のチェスプレイヤーDavid Levy氏が設立した会社でチェスのソフトウェアやハードウェアを開発する会社でした。この会社の設立は、テキサス・インスツルメンツのTI-99/4用チェスモジュール開発のコンサルタントを務めたところから始まっているようです。
開発中に機種名が何度か変わっているようで、「Samurai」「Oscar」「Elan」「Flan」などが発表されましたが、既に商標登録された名前だったため使えなかったようです。(20ヵ国で導入される予定だったこともあるようです。「Flan」は「Elan」が使えないことが判明したために一時的に変更された名前だったようです。ドキュメント等に記載されたEの文字をFに変更するのは比較的簡単だと考えられたため)
最終的に会社名(Enterprise Computers)から命名されました。
このパソコンは、1983年9月に発表されていたのですが、開発が遅れ発売は1985年の6月になってしましました。
この遅れにより、イギリスのホームコンピュータ市場が大きく変化してしまったため、販売に大きな影響があったようです。
発表当時は強力だった性能も1985年には、競合他社のホームコンピュータとの差がそこまで大きくなく、1985年はアメリカでAtari STやAmigaが登場した年です。Atari STやAmigaがイギリス市場で普及するのは1987年以降ですが、1985年頃には、Sinclair ZX SpectrumやCommodore 64、BBC Micro、Amstrad CPC、Acorn Electronといったシェア上位の機種が決まっていたため、多少の性能差ではシェアに食い込むのが難しい状況でした。
1984年に発売されたAmstrad CPCが一定のシェアを獲得できたことを考えると、このパソコンが1983年中に発売されていたら違った結果になったかもしれません。
日本でもそうですが、黎明期(1982年までくらい)のパソコンは、雑誌に掲載されたソースコードを打ち込んだりして使う人が多かったのですが、パソコンの普及が進むにつれ、ライトユーザーが増えるため市販ソフトを利用する人が増えていきます。市販ソフトが売れる市場が出来るとソフトメーカーも増え、市販されるソフトウェアも増えます。特にシェアが高い機種には市販ソフトが集中します。そのような市場が形成されてしまうと、似たようなパソコンの新規参入は難しくなります。8ビットパソコンから16ビットパソコンへのパラダイムシフトが起きるようなタイミングじゃないと難しいでしょう。
Enterprise 64/128には、「Nick」と「Dave」という2つのカスタムチップ(ASIC)が搭載されています。Acorn Atomの設計にも関わっていた経歴を持つハードウェアデザインを担当したNick Toop氏とDave Woodfield氏にちなんで名付けられたようです。
「Nick」はグラフィックチップで、「Dave」はサウンドとメモリのバンク切り替えの機能を持ったチップだったようです。
Enterprise 64/128は、カスタムチップ「Dave」の機能により、4MBのアドレス空間を持っています。
4MBを扱うには、22ビットのアドレスバスが必要ですが、「Dave」が上位8ビット、下位14ビットをZ80のアドレスバスから取得して22ビットを構成しています。
CPUはZilog Z80A(4MHz)で、RAMはEnterprise 64が64KB、Enterprise 128が128KBです。
ROMは、EXOS(Enterprise eXpandable Operating System)とフルスクリーンエディタ、ワープロソフトに32KBです。
BASICは、16KBのROMカートリッジで提供されていました。IS-BASICという名前(ISはIntelligent Softwareのイニシャルだと思われます)のANSI BASIC準拠のBASICです。構造化プログラミングに対応していたようで、SELECT~CASEやDO~LOOPといったこの時代の一般的なBASICには無い構文もサポートしていました。
ROMに実装されたOS上でBASICが動作するという構造は、BBC Microと同じ方式です。
表示能力は、カスタムグラフィックチップ「Nick」により、下記の4つのハードウェアグラフィックモードがありました。
1) 40桁のテキストモード
2) 低解像度ビットマップグラフィックモード
3) 高解像度ビットマップグラフィックモード
4) アトリビュートグラフィックモード
また、EXOSの機能で高解像度ビットマップグラフィックモードを使って80桁の文字表示ができたようです。
グラフィックの解像度は、640×256ドット、320×256ドット、80×256ドットの他、インターレースモードでは640×512ドットが使えました。
ビットマップグラフィックモードで使える色数は、解像度により2色・4色・16色・256色です。解像度と色数の関係は、640×256ドット・2色~80×256ドット・256色です。
アトリビュートグラフィックモードでは、320×256ドット・256色中16色の表示が可能です。
サウンド機能は、カスタムチップ「Dave」により、3つのサウンドチャンネルと1つのノイズチャンネルを持ち、ステレオで出力できます。
各チャンネルは、様々なエフェクトを掛けることができたようです。
YouTubeにアップロードされたゲームの動画を観た限りでは、効果音のみでBGMのあるゲームが少ないようです。
BGMのあるゲームの動画をいくつか観たところ、音質は矩形波に近い音ですが、PSGのサウンドよりは表現できる幅が広い印象です。
PSG以上、FM音源未満という感じでしょうか。
Enterprise 64/128は、キーボード一体型のホームコンピュータですが、特徴的なのは、キーボード右側にカーソルキーの代わりにジョイスティックが付いている点です。Spectravideo SV-318やMSXにもこういうキーボードにジョイスティックを付けられる機種があったと思います。
キーボードは、タイプライター風キーボードとチクレットキーボードの中間的な感じです。ゴム製シート(メンブレンスイッチ)の上にプラスチックのキーキャップを並べたような構造になっていて、キータッチはグニュグニュした感触だったようです。
本体左側面には、ROMカートリッジポートがあります。反対の右側面には、拡張I/Oスロットがあります。
背面には後ろから見て左から、赤いリセットボタンがあり、その次に2つのジョイスティックポート(エッジ・コネクタ)、プリンタポート(エッジ・コネクタ)、シリアルポート(エッジ・コネクタ)、カセットテープデータレコーダ接続コネクタ(ミニジャック)、RGB出力ポート(エッジ・コネクタ)、TV(RF)出力ポート(RCA)、チャンネルセレクタボタン、ACアダプタ接続ポートがありました。カセットテープデータレコーダ接続コネクタには、IN端子とOUT端子の他、リモート端子(REM)が何故か2つあります。
BASICは、ROMカートリッジで提供されているため、電源を入れると大きくカラフルな文字で「ENTERPRISE」とウェルカムメッセージが表示されます。そのタイトル画面から、スペースキーを押すと本体内のROMに入っている(ビルドイン)ワープロソフトが起動しました。
Enterprise 64/128は、8万台程度製造されたようです(64と128の生産比率は不明)が、イギリスではあまり成功しなかったため、イギリスのEnterprise ComputersとIntelligent Softwareは1986年に倒産しましたが、ハンガリー・エジプト・カザフスタン・チェコ共和国などイギリス以外の国で1992年まで販売されていたようです。
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Enterprise (computer) (Wikipedia) |
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コモドール社は、ニューヨークでタクシーの運転手やタイプライターの修理工として生計を立てていたジャック・トラミエル氏が創業した会社で設立当初は、タイプライターの製造販売を行っていました。
事業開始時点では、カナダのトロントを拠点としていたようです。その頃の社名は、コモドール・ポータブル・タイプライター・カンパニーでした。
しかし、日本から安価なタイプライターが輸入されるようになると、北米市場は日本製品に席巻されてしまいました。
その後、「Commodore Business Machines, Inc.」(CBM)に社名を変更し、機械式計算機の製造を行う会社となりますが、またしても日本製の機械式計算機が北米市場を席巻します。
CBMは、1962年に「Commodore International Limited」の名称でニューヨーク証券取引所に上場しました。 コモドールは、機械式計算機の次に電卓事業に参入し、1970年代の初頭には、電卓の製造・販売の事業を主軸としていました。
しかし、1975年に電卓用チップを供給していたテキサス・インスツルメンツ社(TI)が電卓市場に直接参入してきます。そのため、TIのチップを使い電卓を製造していたコモドールは打撃を受けました。
コモドールは、TIに対抗するため電卓製造に必要なチップメーカーをいくつか買収します。その中にMOS6502を開発したモステクノロジー社がありました。これを機にMOS6502の設計者の一人であるチャック・ペドル氏がコモドールの技術部門のトップとなり、PET 2001の開発が始まったことは、PET 2001の解説でも書いた通りです。
コモドールは、PET 2001を発売した1977年に本社をカナダからアメリカ合衆国ペンシルベニア州ウェストチェスターへと移転し、コモドール・インターナショナルとして再編しました。(登記上の本社はバハマだったようです)
その後、VIC-20(VIC-1001)、Commodore 64といった低価格パソコンを製造販売することで、コモドール社はホームコンピュータ業界でトップレベルの企業にまで成長しました。
しかし、1983年頃にコモドール経営陣と社長のトラミエル氏の間で権力闘争が起こります。コモドールの会長で筆頭株主でもあるカナダの投資家アービン・グッド氏と経営方針を巡って対立したと言われていますが、トラミエル氏が息子のサム・トラミエル氏を次期社長として望んだことにグッド氏が反発したという話もあります。また、経営陣も低価格路線を追求するトラミエル氏に反発していたようです。
その結果、トラミエル氏は、社内政治に敗北してコモドールの社長を1984年1月に辞任した後、トラメル・テクノロジーという新会社を設立しました。
トラミエル氏が抜けた後のコモドール社は、ここで解説するAmigaシリーズという先進的なパソコンを発売したものの、1994年には倒産してしまいました。しかし、トラミエル氏が買収して起ち上げたアタリコープ社も1996年にハードディスクメーカーのJTS(JTS Corporation)に吸収合併されたので、トラミエル氏がコモドール社の実権を握り続けていても結果は変わらなかったかもしれません。多くのパソコンメーカーと同様にIBM PC互換機の勢力に対抗するのは難しかったでしょうね。
アミーガ社(設立当初の社名は、Hi-Toroでしたが、1982年にAmiga Corporationに改名)は、アタリ社でAtari VCS(2600)やAtari 800のチップ開発に携わったジェイ・マイナー氏がアクティビジョンのラリー・カプラン氏と設立した会社でゲーム機用ジョイスティックの開発などを行う傍ら画期的なビデオチップを開発してコードネーム「Lorraine」というパソコンに搭載する計画を行っていました。
しかし、開発中に資金が底を尽いたため、古巣のアタリ社から資金提供を受けることになりました。その際、アタリは、Lorraine用に開発したチップセットをアタリのゲーム機に1年間独占的に利用可能とし、さらに1年後には、Lorraineを基にしたパソコンを販売する権利を有するという契約を結びました。もし、アタリ社が分社化せずにこのハードがアタリから出ていたら、Atari 1850XLD(コードネーム「Mickey」)という名前でAmiga 1000と似たようなパソコンが発売されていた可能性があります。
Atari STの解説でも書きましたが、1984年~1985年頃、アタリ社の親会社ワーナー社はアタリ社を分社化して売却しました。その家庭用ゲーム・パソコン部門を購入したのが、トラミエル氏のトラメル・テクノロジーです。
アミーガ社は、この頃にも資金難に陥り、さらなる出資者(Amiga社の設立資金は、当初フロリダ州の3人の歯科医師によって提供され、後にコモドールが会社を買収すると彼らは投資を取り戻しました)を探していましたが、アタリにはトラメル・テクノロジーに家庭用ゲーム・パソコン部門を売却する算段に入っていたため相手にされず、コモドールとの話し合いに入ります。コモドールは、トラメル・テクノロジーにパソコン開発に必要な人材が流出してしまったため、コモドールがアミーガを買収し、子会社(Commodore-Amiga, Inc)にすることになりました。コモドールは、元コモドールの技術者4人を訴えていましたが、トラミエル氏が買収したアタリコープ社は、アタリとアミーガの間で取り交わされた契約を発見したため逆訴訟しました。これにより、Amiga 1000もAtari ST同様に発売が遅れました。Atari STは1985年の6月、Amiga 1000は同年秋に発売されました。
Amigaには、いくつかのカスタムチップが搭載されています。Agnus(OCS Display Controller)、Denise(OCS Graphics Coprocessor)、Paula(Audio and I/O Controller)が有名ですが、Gary(Gate Arrayを短縮した名称のようです)というゲートアレイチップ(後の機種では、Fat Gary、Gayle、Akiko、Bridgetteなどになります)もシステム用に使われています。
Amiga 1000のCPUは、モトローラのMC68000(7.14MHz)、メインRAMは256KBです。
表示能力は、グラフィック用にAgnusとDeniseというカスタムチップを搭載しており、640×200ドットで4096色中16色または、320×200ドットで4096色表示が可能でスプライト機能も持っていました。(インターレース表示では400ライン出力が可能だったようです)
Agnusは、厳密にはメモリコントローラですが、主にCopper(video-synchronized Co-Processor:ビデオ同期コプロセッサ)とBlitter(Block Image Transfer:ブロック画像転送)の機能を内蔵しています。
Deniseは、グラフィックコントローラですが、この頃に一般的だったVDPのようなテキストモードが存在しません。スプライト機能も内蔵していますが、スプライト数が最大8個と少なく、AgnusのBlitter機能のほうがゲームでは重宝されていたようです。
また、Amigaのグラフィックは、AtariSTのようなビットマップ方式ではなく、PC-9801のように各色のグラフィックRAMを重ねて表示するビットプレーン方式だったようです。
サウンド機能は、Paulaというカスタムチップを搭載し、4チャンネルのPCM音源でチャンネルごとに8ビットで量子化したPCMを最大28kHzの周波数で表現でき、6ビットで音量調整が可能だったようです。
CDの音質が16ビット、44.1kHzなので、CDに比べると音質は落ちますが、4チャンネルだったことを考えると当時としては相当凝ったサウンド機能だと言えます。Atari STが標準では一般的なPSG互換音源しか搭載せず、必要な人には標準装備のMIDIポートに接続した外部音源を利用してもらうという方式とは対照的な設計と言えるかもしれません。
しかし、あまりゲーム向けではなかったようで、チャンネルが足りずにBGMや音声ボイスがカットされているゲームがあるようです。FM音源などが別に搭載されていれば完璧だったかもしれませんね。
その点では、8音のFM音源をメインにADPCM音源を1チャンネル搭載したSHARP X68000のほうがゲーム向きだったと思われます。
Agnus・Denise・Paulaは、後にOCS(Original Chip Set)と呼ばれます。
Amiga 1000は、キーボード一体型のデザインを採用したライバルのAtari STとは違い、ピザボックス型の本体ケースとキーボードに分かれたセパレート型のデザインとなっています。そのため、Atari STより高価な値付けとなっており、発売当初はAtari STのほうが売れていたようです。
また、独自の拡張機能としては、86ピンの拡張ポートが1つあるだけのようです。
Amigaシリーズのマウスは、戦車のような見た目から「Tank Mouse」と呼ばれていました。マウス(VIII号戦車 マウス)という名前のドイツ戦車があることを考えれば感慨深いですね。
Amigaが爆発的に売れるきっかけとなったのは、1987年の廉価モデルAmiga 500(この機種は、Atari STと同様にキーボードと本体が一体になったデザインです)の登場からです。
AmigaシリーズとAtari STシリーズとApple IIGSが16ビットホビーパソコン市場では、ライバル関係だったようですが、Apple IIGSは、互換性を引き摺った構造(スーパーファミコンでも使われていたMOS6502の16ビット版ウェスタンデザインセンター社のW65816をCPUに搭載)のため、性能がやや低かったようで、それが原因か分かりませんが、販売台数では2者に後れをとったようです。(ちなみにMacintoshは、価格も高価でビジネスや実用向けと見られていたため、80年代の頃はユーザー層が違ったようです)
AmigaのOSは、ファームウェアのKickstart(発売当初のAmiga 1000では、ブートROMの製作が間に合わず、KickStartという名のフロッピーディスクで提供していたようです)とフロッピーなどから読み込むデスクトップ環境のWorkBenchから構成されています。そのため、OSがアップデートする度にKickstartのROMも交換する必要がありました。(新しいWorkBenchのFDとKickstartのROMを配布。ユーザーが新しいKickstartROMに差し替える必要があったようです)
Kickstartは、ブートストラップ(パソコンの電源を入れた後、OSが起動するまでのプロセス)処理を行うプログラムでBIOSとデバイスドライバ、OSカーネルの一部に相当します。
Amigaの電源を入れるとKickstartによりシステムチェックや各種初期化の処理が行われ、フロッピーディスク(優先度の高いブートデバイスからブートを試みるようになっています)の挿入を促すメッセージが表示されます。ここで、デスクトップ環境であるWorkbenchのディスクを挿入するとGUIのWorkbenchが起動します。ちなみにWorkbenchは、あくまでもデスクトップ環境であり、OSそのものではありません。LinuxのX Window Systemに対するKDEやGNOME、X68000のHuman68Kに対するSX-Window、Microsoft WindowsのWindows Explorerみたいなものだったようです。
また、Kickstartには、AmigaDOSのコアプログラムも含まれています。AmigaDOSというのは、AmigaOSの中でもディスクシステムを管理するオペレーティングシステム部分のことです。具体的には、WorkbenchディスクのShellを起動することでCUI(キャラクター・ユーザー・インタフェース)を呼び出せます。
AmigaOSの大きな特徴としては、プリエンプティブ・マルチタスクOSだったことです。1985年に個人が使うパソコンでGUIのプリエンプティブ・マルチタスク環境が標準装備されていたのは、このパソコンくらいだったのではないかと思います。
AppleのMacintoshでもマルチタスクに本格的に対応したのは、System 7系(1991年登場)からですし、マルチタスクと言ってもノンプリエンプティブなコーポラティブ・マルチタスク(協調的マルチタスク)ですからね。MacOSがプリエンプティブ・マルチタスクに対応したのは、UNIXベースとなったMacOS X(2001年登場)からです。サーバ製品では、1999年に登場したMac OS X Server 1.0からプリエンプティブ・マルチタスクに対応していますが、このOSは、開発コード「Rhapsody」(NeXTのOPENSTEPがベースとなっています)から流用したもので、サーバ用のため従来のOSと互換性がなく独立した製品となっていました。
Amigaは、デモシーンと呼ばれるメガデモ制作の分野でも活躍しました。主に北欧やヨーロッパ方面の文化ですが、Amigaの場合は、FD1枚に収まるプログラムで映像作品を表現(時には時代の風刺や環境問題などを訴える内容だったりします)し、秀逸なものを作ることが流行りました。元は、Apple IIやCommodore64などから始まった文化ですが、一方では音楽のチップチューンへと発展し、一方ではCGと音楽を使ったデモシーンへ発展しました。また、コンピュータゲームのMod文化(ユーザーがゲームを改造する文化)も近い形で発展しています。
1980年代後半の北米市場は、NESなどのゲーム機市場が復活してきたこともあってホームコンピュータ市場が縮小しており、ビジネス向けパーソナルコンピュータ市場はIBM PC互換機が支配的な強さを持っていたため、AmigaもAtari STもヨーロッパ市場がメインマーケットとなっていきます。
1987年3月には、メモリを1MBに増強したAmiga 2000が発売されました。本体は、ピザボックスタイプだったAmiga 1000に比べて大きくなり、一般的なデスクトップパソコンのようなデザインとなっています。この変更は、拡張性のためで、ハードディスクを内蔵したり、内蔵FDDを追加したり、本体内に複数の拡張カードを取り付けたりできるようになりました。Amiga 1000と同じ86ピンの拡張ポートの他、Amiga Zorro IIという拡張スロットが5本とISAバスの拡張スロットも4本(16ビット2本、8ビット2本)搭載されていたようです。
有名な周辺機器としては、NewTek社(3Dグラフィックソフト「LightWave 3D」で有名な会社です)が1990年12月に発売した「Video Toaster」というビデオ編集用キットがあります。最初のモデルは、Amiga 2000に装着するフルサイズの拡張カードとソフトウェアのセットでした。後にAmiga 4000用の「Video Toaster 4000」やMIPS R4400用の「Video Toaster Screamer」なども発売されています。ちなみに「LightWave 3D」は、「Video Toaster」に付属していたCG作成ソフトから発展したソフトです。
1987年10月には、廉価モデルのAmiga 500が699.99ドルで発売されました。これ以降、ハイエンドモデルと廉価モデルを同時期にラインナップしていく方針が取られました。(これは、1986年にマーシャル・スミス氏からCEOを引き継いだトーマス・ラティガン氏の方針のようです。ラティガン氏はコモドールの業績を上げますが、後にアービン・グールド氏の不興を買い解雇されました。その件でラティガン氏は不当解雇を訴え勝訴します)
Amiga 500は、Amigaシリーズの中で一番売れたモデルで特にヨーロッパでは人気があったようです。(ドイツでは、Amiga 500だけで100万台以上が売れたようです)Amiga 500は、Atari STと同じようなキーボード一体型の本体となっています。メモリは、512KBで右側のサイドに3.5インチFDDを搭載しており、86ピン拡張ポート(裏側のカバー内)とAmiga Zorro II拡張スロット(左側のカバー内)が装備されていたようです。
Amiga 1000は、IBM PCやMacintoshと肩を並べるようなパソコンを目指してマーケティングされていましたが、1987年に発売された2機種からFM-8がFM-7とFM-11に分かれたようにゲーム機としても使えるホームコンピュータとハイエンドな高級パソコンの2つの路線で売られました。
Atari STが先に売れていため、Amiga 500には、Atari STから移植されたゲームが多かったようです。
Amigaのタイムラインは、下記の通りです。
Amiga 500シリーズ | Amiga 500(1987年) | → | Amiga 500 Plus(1991年) | → | Amiga 600(1992年) |
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Amiga 1000シリーズ | Amiga 1000(1985年) | → | Amiga 1500(1990年) | → | Amiga 1200(1992年) |
Amiga 2000シリーズ | Amiga 2000(1987年) | → | Amiga 2500(1989年) | ||
Amiga 3000シリーズ | Amiga 3000(1990年) | → | Amiga 3000UX(1990年) | → | Amiga 3000T(1991年) |
Amiga 4000シリーズ | Amiga 4000(1992年) | → | Amiga 4000T(1994年) |
廉価モデルでは、1991年にAmiga 500 Plusが発売されました。メモリが1MB搭載されAmigaOSのバージョンも2.04になっていますが、CPUは、Amiga 500と同じです。
1992年に発売されたAmiga 600では、キーボードからテンキーが廃止され、小型化されています。
Amiga 1200は、名前は1000番台ですが、形状はAmiga 500シリーズと同様のキーボード一体型の本体形状でした。CPUにモトローラ MC68EC020(14MHz)が採用され、AmigaOSのバージョンが3.0/3.1となりました。 MC68EC020は、32ビットCPU MC68020の廉価版でアドレスバスがMC68000と同じ24ビットになっています。また、Amiga 4000で採用されたAGA(Amiga Advanced Graphics Architecture)チップセットを搭載していて、高速なグラフィック処理が可能だったようです。
ハイエンドモデルでは、Amiga 2500から32ビットCPUのアクセラレータカードを搭載していたようです。
Amiga 2500は、モトローラのMC68020とMC68030を搭載したモデルがあり、MC68030を搭載したモデルは、Amiga 2500/30と呼ばれていたようです。
また、1990年に発売されたAmiga 1500は、Amiga 2000のイギリス向けモデルです。
Amiga 3000は、Amiga 2500のように32ビットCPUをアクセラレータカード形式で搭載せず、本体基盤にMC68030のみを搭載しています。拡張バスも32ビット化され、Amiga Zorro IIIとなりました。3000UXは、OSにUNIXを搭載していて、3000Tは、タワー型ケースのモデルです。
Amiga 4000は、MC68040(25MHz)とAGAチップセットを搭載したハイエンドモデルです。1993年には、CPUをMC68EC030(MC68030からMMUをオミットした廉価版)にしたAmiga 4000/030も発売されています。1994年に発売されたAmiga 4000Tは、タワー型のケースのモデルですが、1994年は、コモドール社が倒産した年です。そのため、1995年には、ドイツのEscom社が権利を買い取り、MC68060(50MHz)を搭載したモデルを発売しました。そのEscom社も1996年には倒産し、日本でも「牛パソ」でお馴染みのゲートウェイ社(2007年に台湾のパソコンメーカー、エイサー社に買収されて子会社となりましたが、2009年にはエイサーに吸収され、現在ではブランド名のみが存在しているだけです)がEscomから買い取ったAmigaの権利は、その後、オランダのチューリップ コンピューター社が取得しました。そのチューリップ コンピューターも2009年には倒産したようです。
1991年5月にコモドールは、Amiga 500をベースにしたマルチメディア機のCommodore CDTVを999ドルで発売しました。Amiga 500をオーディオCDデッキに納めたような機種でFDDは、外付けでした。しかし、後にAmiga 500用CD-ROMドライブのAmiga A570が発売されたため、存在意義を失い商業的に失敗しました。
また、1993年9月には、Amiga 1200をベースにしたゲーム機のAmiga CD32が発売されました。イギリスでの価格は、299ポンドだったようです。Amiga CD32は、Amigaシリーズが好調だったヨーロッパで発売され、その後、アメリカでの発売も予定されていましたが、特許問題が発生したため販売できず、問題を解決する前にコモドール社は倒産してしまいました。1993年9月から、コモドールが倒産する1994年4月の半年程度としては、販売台数が10万台とそれなりの台数が販売されています。ゲーム機として見れば失敗だったかもしれませんが、パソコンとして考えれば結構売れたのではないでしょうか。
当時の日本では、Atari STシリーズよりもAmigaシリーズのほうが知名度はずっと高かったように思います。私もAtari STは存在自体を知りませんでしたが、Amigaは雑誌に記事が載っていることがあったように記憶しています。手持ちの書籍で調べてみたところ、「よいパソコン悪いパソコン '92年後期版」(JICC出版局)にAmiga 500が載っていました。価格が129,800円となっていますので、日本でも販売していたようです。(コモドールジャパンが撤退した後の正規代理店はミックジャパンという会社だったようです)ちなみに「よいパソコン悪いパソコン」の'86年版~'92年前期版(全て持っているわけではありませんが)にはAmigaは登場していません。Apple IIGSやMacintoshシリーズ、NeXTなどの外国機は紹介されています。Amigaを含めそれらのパソコンは、外国製なので敷居が高く、購入しようと思ったことはありませんが、当時は憧れでした。
2000年代に入って、AmigaOneというIBM POP(PowerPC Open Platform)上にAmigaOSを搭載するハードウェアが企画されましたが、AmigaOS 4.0(アーキテクチャが違うためAmigaOS 3.xは動作しません)の開発が遅れたため、PowerPC版のLinuxを搭載して発売されました。当初は、Amiga 1200/4000のアップグレードキットとして企画されたものですが、これは開発中止となり、IBM POP上でAmigaOSを搭載する方向となったようです。開発が遅れたAmigaOS 4.0は、2005年にAmigaOneの生産が終了した後、2006年にリリースされました。
その後、2010年にAmigaOneの新機種であるAmigaOne X1000が発表され、2011年にはAmigaOne 500がAmigaOS 4.1を搭載して発売されました。AmigaOne X1000は、2012年にAmigaOS 4.1.5を搭載して発売されています。2015年1月には、 AmigaOne 500用の新しいマザーボードも発売されたようです。
このようにAmigaシリーズは、プラットフォームを変更して現在も生き残っています。
サイト名 | リンク |
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Amiga (Wikipedia) |
https://ja.wikipedia.org/wiki/Amiga |
1983年に2DDのFDDを標準搭載して登場したPC-9801Fシリーズにより、PC-9800シリーズの人気は加速しましたが、16ビットパソコン市場での優位を決定したのは、このPC-9801VMだと思われます。PC-9801VMシリーズのスペックが後のPC-9800シリーズの基本となりました。後に発売された多くのソフトが要求スペックをVM以上の環境で動作させることを前提にしていました。VMが発売されて10年以上経った1996年頃に発売されたソフトでも動作環境がVM/UV(UVは、1986年に発売されたVMの3.5インチFDD版といった機種です。VMではオプションのFM音源が標準装備されています)以降となっているものがありました。
PC-9801VMのCPUは、NEC μPD70116(10MHz)です。このCPUは、インテルのi8086の改良型互換CPUで、通称V30と呼ばれています。
メインRAMは、標準で384KB(最大640KB)でROMは、BASIC等に96KBと8KBのCG-ROMとJIS第一・第二水準漢字ROMも搭載しています。VRAMは、グラフィック用に192KBとテキスト用に12KBが搭載されています。
表示能力は、テキストが80/40文字×25/20行8色2画面で、グラフィックが640×400ドット4096色中8色2画面またはモノクロ6画面、640×200ドット4096色中8色4画面またはモノクロ12画面です。オプションのグラフィックVRAMを追加して256KBに増設すると4096色中16色の表示が可能になります。後のソフトは、この640×400ドット4096色中16色が基本となっているものが多いです。
サウンド機能は、ビープ音のみですが、同時期に発売されたオプションのPC-9801-26でNECの8ビットSRシリーズと同等のFM音源(OPN)が利用可能となります。その場合、FM音源3音+矩形波3音+ノイズ1音の発生が可能です。
VM0は、FDDがオプションですが、VM2では2基の2HD/2DD両対応のFDDが内蔵されています。
Mシリーズでは、2DDのFDが読み書き出来なかったため、FシリーズとFDでデータのやり取りが標準で出来ないことが問題でしたが、VMではFシリーズのFDを読めるようになりました。
また、同時期にPC-9801VF2(348,000円)という機種も発売されていますが、こちらは、CPUのクロックが8MHzでRAMが256KB、FDDが2DDのみのドライブとなっています。しかし、FシリーズとMシリーズのソフトウェア資産の大半が使えるVMのほうが人気があったようです。当時のFDDは、専用のインタフェースを取り付けないと仕様の異なるディスクドライブは接続できないのが普通でした。ですから、VF2の内蔵FDDをVM2の内蔵FDDに取り替えるだけでは使えなかったと思います。VF2で2HDのFDを読み書きできるようにするには、別途拡張スロット(Cバス)に差すインターフェースボードと外付けFDDが必要になるでしょう。
VM2は、単独の機種として、20万台以上販売されたようです。定価が40万円を超える機種でこの販売台数は凄いですね。
1986年11月には、RAMを640KB、VRAMも256KB搭載し、2HD/2DD自動切換え型FDDを搭載したPC-9801VM21が390,000円で発売されました。
1988年11月には、VM21の廉価モデルPC-9801VM11が328,000円で発売されています。
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PC-9801VM (Wikipedia) |
https://ja.wikipedia.org/wiki/PC-9801VM |
1985年9月には、MZ-2000・MZ-2200に続くMZ-80B系列の新型パソコンMZ-2500が発売されました。
価格は、3.5インチFDD(2DD)を1台内蔵したMZ-2511が168,000円、2台内蔵したMZ-2521が198,000円です。また、MZ-2500では、FDDだけではなく、カセットテープ・データレコーダも内蔵されていました。
MZ-2500は、「スーパーMZ」と呼ばれていましたが、Oh!MZなどの雑誌では「火の鳥」とも呼ばれていました。X1ユーザーだった私は、Oh!MZ/Xを購読していたので、もしかしたら押入れにMZ-2500の記事が載ったバックナンバーが残っているかもしれません。それにしても何故、「火の鳥」だったのでしょうね。当時、MZシリーズの人気が低迷していたので、不死鳥のように復活して欲しいという願いが込められていたのでしょうか。
MZ-2500のCPUは、シャープのLH0080B(6MHz)です。このCPUは、クロック周波数が6MHzのZ80B相当のZ80セカンドソースCPUでした。
メインRAMは、128KB(最大256KB)で、グラフィックVRAMが64KB(最大128KB)、テキストVRAMが6KB、PCG-RAMが8KB搭載されていました。MZ-2500では、メモリの実装をバンク切り替えではなく、日立 MB-S1のように独自のメモリコントローラを搭載することで、8KB単位のメモリをメモリブロックとして管理し、512KBのメモリ空間(実際に増設が可能なメインRAMは、256KBまで)を実現していました。
ROMは、IPLやBIOSに32KBとJIS第一・第二水準の漢字ROMも搭載していました。
表示能力は、テキストが80/40文字×25/20/12行8色または64色(256色モード時には横40文字のみ)で、グラフィックが640×400ドット16色中4色(VRAM128KB時16色)または、640×200ドット16色(VRAM128KB時2画面)、320×200ドット16色2画面(VRAM128KB時4画面)、320×200ドット256色(VRAM128KB時2画面)と豊富な画面モードを持っていました。ハードウェアスクロール機能も持っていて、シューティングゲームなどにも向いた設計になっています。
サウンド機能は、NECのSRシリーズと同様にYM2203(OPN)が搭載されており、FM音源3音+矩形波3音+ノイズ1音です。また、MZ-80B/2000/2200との互換用に1ビットD/Aの矩形波単音も搭載されていました。
MZ-2200とは違い、キーボード分離のセパレート型の本体で、3.5インチFDDが縦に並び、その左側にカセットデッキのようなデータレコーダが搭載されています。そのため、このクラスのパソコンとしては、本体が分厚い印象です。データレコーダは、MZ-2200までのソフトを読み込めます。互換性については、フロントパネルを開くと2500/2000/80Bのモード切替スイッチがあり、切り替えて起動することでMZ-2000やMZ-80Bとの互換モードで起動しました。MZ-2000モードの他にMZ-80Bモードも搭載しているため、MZ-2000/2200よりもMZ-80Bに対しての互換性が高かったようです。
面白い機能としては、アルゴキーという船のマーク(ギリシャ神話に出てくるアルゴー船を模しているようです。アルゴー船は、MZシリーズ初期からシンボルマークとして使われていました)の付いたキーがあり、それを押すと指定したプログラム(電卓プログラムなど)を呼び出せるアルゴ機能というものがあったようです。
日本語機能も高く、標準でJIS第二水準の漢字ROMを搭載し、X1 turboシリーズと同様に漢字VRAMが搭載されており、漢字をテキストとして処理することができました。オプションで256KBの漢字辞書ROM(シャープのワープロ専用機「書院」シリーズと同等の仮名漢字変換用辞書ROMのようです)も用意されていました。
また、MZ-2500シリーズが力を入れていたのがパソコン通信の機能です。パソコン通信に使うターミナルソフトが標準で装備されており、RS-232Cにモデムを接続するか、オプションのモデムフォンを利用することでパソコン通信が可能となっています。モデムフォンは、内蔵データレコーダを留守番電話に利用することもできたようです。
1986年の10月には、「スーパーMZ V2」と言われるMZ-2531が199,800円で発売されました。メインRAMが256KB、グラフィックVRAMも128KBと、どちらも最大まで増設されており、オプションだった256KBの漢字辞書ROMも標準装備されています。また、専用モニタと組み合わせてスーパーインポーズ機能が使えるようになり、同梱のBASICがV2にバージョンアップしています。
同年12月には、廉価モデルのMZ-2520が159,800円で発売されました。初代MZ-2521からカセットテープ・データレコーダとMZ-80B/2000互換モードが廃止され、256KBの漢字辞書ROMが追加されています。また、外付けFDD用インタフェースが廃止されるとともに4,096色パレット機能のオプションも使えなくなっています。
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MZ-2500 (Wikipedia) |
https://ja.wikipedia.org/wiki/MZ-2500 |
FM-7の上位機種であったFM-77に大幅な映像機能を強化したモデルがFM77AVです。3.5インチのFDD(2D)が1台内蔵のFM77AV-1が128,000円、2台内蔵のFM77AV-2が158,000円でした。
この機種から、FMの後に-(ハイフン)が無くなり、FM77AVとなっています。
FM77AVの最大の特徴は、多色化で「総、天、然、ショック」のキャッチコピーが有名です。
このパソコンは、富士通が買収したゼネラル(富士通ゼネラル)との共同開発でした。そのため、ゼネラルから発売されていたMSXのPAXONシリーズは販売を中止し、MSXから撤退しました。
FM77AVのCPUは、富士通 MBL68B09E(2MHz、モトローラ MC68B09E互換)で、画面制御用にも同じCPUが使われています。
メインRAMは128KBで、グラフィックVRAMが96KBです。メインRAMは、バンク切り替えではなく、FM-77と同様にメモリ・マネージメント・レジスタ(MMR)と呼ばれる簡易MMUを使い、CPUとメインメモリの間にMMRを介在させることで、最大192KB(後継モデルでは、最大448KB)までのメモリが扱えるようになっていますが、このやり取りにはウエイトが入ってしまったため、CPUのメインメモリに対するアクセス速度は、FM-7より遅かったようです。また、画面制御用CPUとの共有メモリも128バイト搭載(メモリマップで3FC80~3FCFF)されています。
ROMは、BASIC等に40KBとサブCPU用に32KBが搭載され、JIS第1水準漢字ROMも標準で搭載されています。
表示能力は、テキストが80/40文字×25/20行、グラフィックが640×200ドット8色2画面またはモノクロ6面、320×200ドット4096色です。
サウンド機能は、NECのSRシリーズと同様にYM2203(OPN)が搭載されており、FM音源3音+矩形波3音+ノイズ1音です。これにより、御三家とMZシリーズなどのホビーパソコンでFM音源にOPNを採用していないのは、X1シリーズのみとなりました。性能的には、X1シリーズが採用しているOPMのほうがステレオで8音(OPNはモノラル3音)の上、幅広い音色が発生できるため良いのですが、SSGが内蔵されていないため、PSG音源などを別途用意する必要があり、コストアップに繋がるのでOPNの採用が多かったのではないでしょうか。PSGなどの矩形波チップは必要なのかという疑問もありますが、恐らくノイズ発生チャンネルが重要なのだと思います。矩形波はFM音源でも代用可能だと思いますが、ノイズの発生は難しいのかもしれませんね。
FM77AVは、キーボードが分離したセパレートタイプで黒っぽい本体に3.5インチFDDが横並びに内蔵されています。その名の通りAV機器のようなデザインでした。
翌1986年の12月には、内蔵FDDを2Dのみから2D/2DD両対応のものに変更したFM77AV20シリーズが発売されました。価格は、FDD1機内蔵のFM77AV20-1が138,000円、2機内蔵のFM77AV20-2が168,000円でした。
また、メインRAMが192KB(最大448KB)とグラフィックVRAMが144KB搭載され、640×400ドット8色、320×200ドット26万色(262,144色)の画面モードが追加されたFM77AV40も228,000円で同時に発売されました。FM77AV40には、MZ-2531と同様に256KBの漢字辞書ROMが搭載されています。
1987年の11月には、マイナーチェンジモデルのFM77AV20EXとFM77AV40EXがそれぞれ128,000円と168,000円で発売されました。FM77AV20EXは、FM77AV20-2とほぼ同機能でカセットインターフェースが廃止されていたり、FM77AV40で追加されていたDMAC(Direct Memory Access Controller:CPUに代わって機器間のデータ転送を行うチップ)を搭載していたりといった変更がされた廉価モデルです。
FM77AV40EXは、FM77AV40に比べVRAMが192KBになり、26万色以外の画面モードでの画面数が倍になりました。
1988年11月には、FM77AVシリーズ最後の機種であるFM77AV40SXが178,000円で発売されました。
FM77AV40SXは、FM77AV40EXにビデオディジタイズやスーパーインポーズといった機能を標準で搭載され、FM77AV20EXと同じようにカセットインターフェースが廃止されています。
1984年10月に発売されたシャープ X1 turboから始まった、8ビット御三家の新機種は、1985年1月に発売されたNEC PC-8801mkIISR、1985年10月発売の富士通 FM77AVと三つ巴の戦いを繰り広げましたが、この時期は、16ビットパソコンへの過渡期だったこともあったためか、頻繁なモデルチェンジ競争が行われた印象です。
X1 turbo/Zシリーズは、1984年10月~1988年12月までに9機種が発売され、PC-8801mkIISRシリーズは、1985年1月~1989年11月までに19機種が発売され、FM77AVシリーズは、1985年10月~1988年11月までに8機種が発売されました。
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FM77AV (Wikipedia) |
https://ja.wikipedia.org/wiki/FM77AV |
レトロパソコン(基礎知識編) |
レトロパソコン(機種別解説編) ~1970年代~ |
レトロパソコン(機種別解説編) ~1980・1981年~ |
レトロパソコン(機種別解説編) ~1982年~ |
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