レトロパソコン(基礎知識編)に続いて、レトロパソコンの機種別解説編を書いてみました。
主にインターネットで検索した資料を元に書いています。内容が間違っていることもあるのでご注意ください。私自身の記憶で書いた部分もありますので情報の確度という点でも怪しいかもしれません。また、参考にした書籍の記述が間違っていることがあります。パソコンのスペックなんかは、誤植が多いですし、誤植とまでは行かなくても解釈の仕方で変わるようなものもあります。
例えば、FM-7のCPUであるMC6809系MPUは、スペック表をみると動作クロックが2MHzと表記されているものと8MHzと表記されているものがあったりします。何故こんなことが起きるのかと言えば、CPU自体は2MHzで動作していますが、クロック発振回路が8MHzで動作しているものがあるからです。私も詳しくは知りませんが、MC6809系MPU(CPU)には、クロックジェネレータを内蔵したものと外部からクロックを入力するものがあり、MC6809のように末尾にアルファベットの無い型番のものは動作クロックの4倍の周波数の水晶発振子を接続し、内蔵したジェネレータで1/4に分周して使用するからだそうです。また、MC6809Eのような末尾にEがある型番のものは、外部で生成した2相クロック(現在のCPUでは、単相クロックが一般的ですが、当時は多相クロックを使ったものも多かったようです)を入力するようです。
対象は、ホビー用途で使われたものに限定し、年代順に紹介いたします。
海外のパソコンも、日本で発売されたものや有名なものは紹介します。
暇つぶしに思いついたコラムなので気軽に読んで下されば幸いです。
世界初のパソコン(個人向けコンピュータ)として有名な機種です。
このコンピュータが発売される前にも高価なコンピュータはいくつも発売されていました。
しかし、自動車と同じくらいの価格で販売されているそれらを個人の趣味で買おうという人は少なかったでしょう。(自動車と違い何に使えるか分からないコンピュータに大金を出せるのは限られた人だけだと思います)
Altair 8800は、500ドル程度の低価格でBIT誌上でも大々的に紹介されたこともあり、世界初のパソコンと認識されています。
「アルテア はちはちまるまる」と発音しますが、Altairは、わし座のα星アルタイルのことです。(スタートレックのエピソードにちなんで名付けられたようです)
MITS社の社長エド・ロバーツ氏自身が開発したパソコンで、MITS社自体も非常に小さな会社だったようです。NHKの「新・電子立国 第5回 ソフトウェア帝国の誕生~天才たちの光と影~」でも、事業に失敗して倒産寸前のMITS社に銀行が6万5千ドルの資金を融資したことで、パソコンの開発・販売ができたことや、マイクロソフトのポールアレン氏がMITS社の社屋がとても小さくて驚いたエピソードなどを紹介しています。
Altair 8800は、世界初のパソコンとして歴史に名を残し、それは素晴らしいことだと思いますが、個人向けのコンピュータが作れるくらい、マイクロプロセッサの価格が下がってきた点が重要だと思います。
また、このパソコンで使われたバスアーキテクチャは、後にS-100バスと呼ばれるAltair busでした。 Altair 8800互換機以外にも後に登場した多くの8ビットパソコンがS-100バス互換で登場し、最終的にIEEE-696として標準化されました。
Altair 8800の入出力装置は、ケース前面のパネルに多くのトグルスイッチとLEDランプが付いたもので、ワンボードマイコンでも同様の操作方式のものがありました。
スイッチの上げ下げで各ビットのオン・オフを表現し、コードを入力していくのです。
入力したプログラムを実行させてもLEDを表示させることしかできないため、実用的に使う場合は、テレタイプ端末等を買って接続し、BASICなどのプログラムを読み込ませる必要がありました。
テレタイプ端末とは、電子タイプライターに紙テープ読み取り装置などが付いたような端末で、画面に表示する代わりにプリンタから結果が出力されます。遠隔地からメインフレーム(大型汎用コンピュータ)を使用する場合などにも用いられました。
Altair 8800のユーザーの中には、中古のテレタイプ端末を購入していた人も多いようです。
Altair 8800のハードウェアは、CPUがインテル社のi8080でメモリは256バイト、初期のモデルはIPL ROMすら持たなかったため、紙テープからプログラムを読み込むのにも起動の儀式(トグルスイッチでIPLを入力)が必要だったようです。
ちなみにIPLというのは、Initial Program Loaderの略でコンピュータの電源を入れた時に補助記憶装置などからBASICやOS等のプログラムを読み込む処理を行う起動プログラムのことです。(ブートローダの一種)
発売当初の出荷の遅れや信頼性の低さから、Altair 8800には、多数の互換機が発売されMITS社は経営状態が悪化し、市場から駆逐されてしまいました。
日本でもソーテックの前身である工人舎(ちなみにソーテックは、工人舎の創業者が技術部門を分社化して作った会社で後に工人舎を合併しました。現在はオンキヨーに併合されソーテックのブランド名のみ残っています)が互換機を輸入販売していたようです。
また、派生機としてモトローラのMC6800を採用したAltair680という機種もあったようです。
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Altair 8800 (Wikipedia) |
https://ja.wikipedia.org/wiki/Altair_8800 |
世界初のパソコンは、MITS社のAltair 8800ですが、世界で初めてパソコン市場を開拓したパソコンは、米アップル・コンピュータ社(現Apple Inc.)のApple IIでしょう。
Apple IIは、拡張性が高く、1970年代に登場したパソコンとは思えないくらい長い期間売れ続けました。 Apple IIの販売台数が爆発的に伸びたのは、1979年に世界初のパソコン用表計算ソフトVisiCalcが発売されたことがあります。日本とは違い、一般的なサラリーマンでも確定申告が必要なアメリカ(日本では、年収2000万円を超える人や給与以外にも一定以上の収入がある人のみ)では、パソコンで使える表計算ソフトが重宝されたようです。
1975年にスティーブ・ジョブズ氏の薦めでスティーブ・ウォズニアック氏により開発が開始されたApple Iのプロトタイプは、1976年3月に完成しました。当時、ウォズニアック氏は、ヒューレット・パッカード社の社員だったため、上司に見せたものの製造販売を断られ、自分達で発売することにしました。
一方のジョブズ氏は、大学を中退した後、アタリ社の技師をしていましたが、起業することを考えており、ウォズニアック氏を誘いApple Iの開発を促しました。ジョブズ氏は、Apple Iの営業を行い、マウンテンビューのパソコンショップに50台納品する契約をしました。その部品を購入するため、ジョブズ氏は、愛車のフォルクスワーゲン・タイプ2を、ウォズニアック氏は、プログラム電卓をそれぞれ売ってApple Iを製造する資金を捻出したそうです。
そして、1976年7月にApple Iは、666.66ドルで発売されます。Apple Iは、ケース入りのパソコンだったわけではなく、ロジックボードと呼ばれる基盤のみの販売でした。ただし、一般的なワンボードマイコンなどとは違い、4KBのメモリが搭載され、BASICもカセットテープで提供されており、キーボードやケース、変圧器、モニタ等を用意すればパソコンになりました。
Apple Iの販売で手ごたえを感じたジョブズ氏は、大量生産を行うため、アタリ社のノーラン・ブッシュネル氏に投資を頼みますが断られ、他の投資家(ドン・バレンタイン氏)を紹介されます。バレンタイン氏にも投資を断られますが、次に紹介された投資家のマイク・マークラ氏が興味を持ったため、アップル・コンピュータ社が誕生しました。
ヒューレット・パッカード社を退社したウォズニアック氏は、1977年にApple Iを再設計したApple IIを開発しました。
Apple IIは、1977年に発売された低価格パソコン「1977 Trinity」の中で唯一のカラー表示が可能なパソコンでした。
CPUは、モステクノロジー社のMOS6502(1MHz)、初期型は、4KBのRAMと8KBのROMにウォズニアック氏が書いた整数BASIC等が搭載されていました。II plusでは、浮動小数点演算が行える マイクロソフト社製の Applesoft BASIC(10K BASIC)を搭載しましたが、BASICの動作は初期型に比べて大幅に遅くなったようです。(当時のCPUには、FPUが内蔵されていないため、整数BASICの方が遥かに高速で動作しました)
表示能力は、テキストが40文字×24行で、グラフィックは280×192ドットのモノクロと40×48ドットのカラー15色2画面が選べたようです。(Enhanced IIeで560×192ドット16色まで拡張され、Apple IIGSでは、640×200ドット16色の表示が可能)
Apple IIのグラフィックは、少し変わっていて、画面上のグラフィックの1ピクセルがビデオメモリの1ビットに対応していて、1バイト中の7ビットはピクセルを表現し、残り1ビットが色セットの指定で色は隣り合ったピクセルのビットパターンで表現していたようです。(VRAMから1バイト分のデータを取り出してみると、最上位ビットが色セットの切替用で残り7ビットが7ドット分の色を表現しているということです)
このような特殊な色指定を行っていたため、カラーモニタでテキストを表示すると虹色の文字が表示されました。(Apple II plusでは、テキストモード時にモノクロ信号を出力するcolor killerと呼ばれる回路を実装しています)
また、ビデオメモリのアドレスが連続しておらず、飛び石状に配置されていたようです。(CRTCの実装に合わせたため)
Apple IIのサウンドは、基本的に矩形波単音です。(Apple IIは、サウンドカードもサードパーティ等からいろいろ出ていたようです)Apple IIGSでは、32チャンネル(ステレオ16チャンネル)発声可能なEnsoniq 5503 DOC(Digital Oscillator Chip)というシンセサイザー並の音源を積んでいました。(実際にこのチップを積んだシンセサイザーが存在するようです。Ensoniq社は、ヤマハのようなシンセサイザーや楽器、音源チップのメーカーです)
Apple IIの主なラインナップは、
発売年 | 機種名 |
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1977年 | 初代Apple II |
1979年 | Apple II plus(メモリ増量、各種ROM変更等) |
1983年 | Apple IIe(キーボード変更、小文字(lower case)利用可能、オプションの80桁/メモリボード搭載でグラフィック強化・80桁表示可能) |
1984年 | Apple IIc(CMOS化、小型化、5インチFDD内蔵) |
1984年 | The Enhanced IIe(Apple IIeに比べCMOS化、ROM変更) |
1986年 | Apple IIGS(16bit化、グラフィック・サウンド強化) |
1987年 | The Platinum IIe(The Enhanced IIeに比べメモリ増量) |
1988年 | Apple IIc plus(Apple IIcに比べCPU高速化、メモリ増量、電源内蔵、3.5インチFDDに変更) |
という感じです。(最後まで生産された機種であるThe Platinum IIeの生産終了日は、1993年11月15日です)
また、日本向けのApple II J-plus(東レから1980年7月に発売、価格は358,000円)といった機種もありました。これは、Apple II plusにカタカナが使えるようにした機種でしたが、その変更により、海外ソフトの互換性に問題が発生したようです。
サイト名 | リンク |
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Apple II (Wikipedia) |
https://ja.wikipedia.org/wiki/Apple_II |
Apple II J-plus (雑誌広告) |
https://tsujim.nagahama.shiga.jp/retropc/apple2.jpg |
創業者のジャック・トラミエル氏がタイプライターの製造販売からスタートしたコモドール社は、機械式計算機の製造販売(何れの事業も日本から安い製品が輸入されて打撃を受ける)を経て、電卓の製造販売を行う会社となっていました。しかし、電卓の製造販売事業もテキサス・インスツルメンツ(TI)社の直接参入(コモドールは、TIのチップを使っていた)により、またしても大打撃を受けることに・・・。その後、モトローラからスピンアウトした技術者が設立し、画期的なCPU MOS6502を開発していたモステクノロジー社を買収。これを機にMOS6502の設計者の一人であるチャック・ペドル氏がコモドールの技術部門のトップとなり、PET 2001の開発が始まりました。PET 2001は、1977年の1月に発表され、同年10月に出荷が開始されました。
また、PET 2001は、1978年に日本でも298,000円で発売されています。
ちなみにジャック・トラミエル氏は、ポーランド出身のユダヤ人で幼少期に起きたナチスドイツの侵攻によりアウシュビッツの強制収容所に投獄されていたことがあるという異色の経歴を持ちます。終戦後、アメリカに渡り、タクシーの運転手やタイプライターの修理工を経た後、1958年にカナダのトロントでタイプライターの製造会社「Commodore Business Machines」を設立しました。
PET 2001のCPUは、MOS6502(1MHz)でROMは、2KBのシステムと12KBのCommodore BASIC(Microsoftの6502 BASICをベースにしているようです)が搭載され、初期にはRAMが4KBのモデルと8KBのモデルがあったようですが、出荷が注文に追い付かない状況になったため、8KBバージョンのみに統一されたようです。テキストVRAMは、1KBです。
表示能力は、テキスト40文字×25行でグラフィック機能はありません。サウンド機能もありません。(後期モデルでビープ音(矩形波単音)を搭載)
後に80桁表示可能なモデルが発売されますが、ソフトの互換性がありませんでした。(後方互換にも対応していないようです)
PET 2001は、本体、キーボード、モニタ、データレコーダが一体となったオールインワンタイプで、BASICも含め、初期のシャープMZシリーズに影響を与えたようです。
キーボードは、マトリクス配列(格子状キー配列、キーが縦横揃った碁盤目状に配置されているもの。つまり、フルキー部分のキーが格子状に配列されたものです。一般的にタイプライターなどのキー配列では、少しずらして配列されています)で不評だったようです。
個人向けには、それほど売れず、学校等の教育機関でよく売れたようです。一体型のオールインワンタイプなので、接続の手間がかからない、場所を取らないという点が好まれたのかもしれませんね。(CRTモニタ一体型のパソコンは、サイズが大きく重量があるため、盗難に遭いにくいといった防犯上の理由もあるようです)
また、ヨーロッパへ出荷する時にPETという商標が既に登録されていたため、以前の社名でもあったCBM(Commodore Business Machines)にヨーロッパ向けモデルは改名されました。
1979年には、改良型のPET 2001-Nシリーズを発売。モニタがグリーンモニタ(当時は、モノクロモニタの中では高級なイメージだった)になり、データレコーダを削除してキーボードをテンキーが追加されたタイプライター風のものに変更、16KBと32KBのRAMのモデルを追加し、ROMの内容も変更(機械語モニタプログラムの追加など)しました。
その後、1980年にPET 4000シリーズとCBM 8000シリーズが発売され、4016・4032・8016・8032・8096といったラインナップがありました。(4016は、40桁表示・メモリ16KBの意味)
1981年には、MC6809を追加したSuperPET 9000シリーズが発売されています。
1982年に後継機のCommodore CBM-IIシリーズが発売されましたが、8bitのビジネス向けパソコンということもあってか成功することはありませんでした。70年代の終わりから80年代の初めにかけて、8bitビジネスパソコン(Tandy TRS-80 Model II以降やApple IIIなど)が登場していますが、大きく成功した機種はないようです。アメリカではIBM PC、日本ではPC-9801といった16bitビジネスパソコンが成功しています。
CBM-IIには、個人向けのPシリーズ(Commodore 64の販売が好調だったため、Pシリーズはアメリカでは発売中止となりました)と法人向けのBシリーズがありました。主な違いは、CPUのクロック周波数とビデオチップでPシリーズには、Commodore 64(以下、C64)と同じVIC-IIが、BシリーズにはCRTCのモトローラMC6845のMOSテクノロジー版であるMOS6545が搭載されています。(MC6845 CRTCは、当時、多数のパソコンに採用されており、X1でも日立のHD46505が搭載されていました。IBMのCGAにも採用されています)また、Pシリーズにはジョイスティックポートがあったようです。
CBM-IIのCPUは、MOS6502の派生CPUであるMOS6509(Pシリーズ1MHz/Bシリーズ2MHz)でした。このCPUは、バンク切り替えの機構をチップ内に実装していて1MBのメモリを扱えるようになっています。
サウンド機能は、C64と同じSID音源(MOS6581)をPシリーズ・Bシリーズ共に搭載しています。
オプションに8088ボードやZ80ボードが用意されていたようで、MS-DOSやCP/Mが使えたようです。
RAM容量は、128KBモデルと256KBモデルがあったようです。(Pシリーズは128KBのみ)
キーボードには、従来のPETシリーズには無かったF1~F10のファンクションキーが追加されています。
主なラインナップとしては、Commodore P128(発売中止)・B128(1982年6月発売)・B256(1982年6月発売)・BX128-80(1983年3月発売)・BX256-80(1983年3月発売)といったモデルがあったようです。ヨーロッパでは、P128はP500(ヨーロッパでも販売代理店と小売業者による不適切な管理が原因でリコールされたため、現存する実機は非常に少ないようです)、B128が610、B256が620、BX128-80が710、BX256-80が720という名称で、コプロセッサボードを搭載した630、730といった機種もあったようです。
Commodore CBM-IIシリーズは、1984年には生産中止になりましたが、売れ残った在庫はコンピュータ清算人(不良在庫を買い取り転売する業者)の手によりディスカウント販売されました。そのため、それなりの台数が市場に流れたようです。
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PET 2001 (Wikipedia) |
https://ja.wikipedia.org/wiki/PET_2001 |
皮革製品を扱っていたアメリカのタンディ・コーポレーションは、1962年にラジオシャックという家電チェーンストアを買収しました。(タンディ・ラジオシャックと改称)
その後、1970年代半ばに仕入れ担当だったドン・フレンチ氏は、MITS社のAltairを見てコンピュータに可能性を感じ、製造担当副社長のジョン・V・ローチ氏に自ら設計したコンピュータを提案します。ローチ氏は、ナショナル・セミコンダクター(NS)のスティーブ・レイニンガー氏にフレンチ氏の設計を評価してもらい、1976年12月にTRS-80 model Iの開発が開始されたようです。
TRS-80 model IのCPUは、Z80の1.77MHzで、RAMは4KB(後に16KB)、ROMはLevel I BASICが4KB、アップグレード可能なLevel II BASICが12KBでした。
Apple IIなどに比べると、非常に低価格で発表後に問い合わせが殺到したようです。
TRS-80 model Iのポイントは、家電チェーンストアで売られた低価格な8bitホビーパソコンで最終的に20万台以上販売されたという点だと思います。(この数字は、1970年代ではApple IIよりずっと多い販売台数です)
1977年に発売した、Apple II、Commodore PET 2001、TRS-80 model Iは、後に「1977 Trinity」(Byte誌が名付け親という説がありますが、確認できる初出の記事は1995年のもののようなので、それ以前に何処かで言及されていた可能性はあります)と呼ばれます。
また、TRS-80 model Iは、日本でも1978年にディスプレイとセットで198,000円(Level I BASIC)と228,000円(Level II BASIC)で発売されました。
表示は、モノクロのキャラクタマシンです。当時は、低価格なパソコンでは、こういうカラーやグラフィックを使えない機種が一般的でした。日本では、日立のベーシックマスターシリーズ(レベル2まで)やシャープのMZ-80K系パソコンがそうです。
グラフィックが使えない代わりにグラフィック文字を使った疑似グラフィックが使えます。有名なDancing Demonも疑似グラフィックでキャラクタを動かしています。
MZ-80K系のパソコンも市松模様などのグラフィック文字を組み合わせて、疑似グラフィックを表示していました。
このパソコンで興味深いのは、キーボードの入力をメモリマップにマッピングしている設計です。
Z80は、I/Oが256ポート分使えるのに何故このような設計になっているのか不思議ですね。
そのせいか、チャタリング(キーを1回押しただけで、複数回入力される)と呼ばれる現象が起きたようです。
バスは、Z80のパソコンでも広く採用されていたAltair 8800のS-100バスではなく独自仕様だったようです。
また、拡張インタフェースに様々な周辺機器を接続できるようになっていたようです。YouTubeなどに上がっている動画で拡張インタフェースを接続したTRS-80 model Iを見ることができます。
TRS-80 model Iは、 FCC の新たな電波干渉防止規格に適合しておらず、発売を中止しました。後継機として1980年7月に発売されたModel III(Model IIは、後継機ではなく別アーキテクチャのマシンだったようです)も同様に電波干渉防止規格に適合せずに販売を中止し、1983年4月にModel III の後継としてModel 4が発売されました。
TRS-80 model Iシリーズは、高級化しビジネス向けになっていきました。ホビー向け路線は、MC6809Eを搭載したTRS-80 Color Computerへ向います。
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TRS-80 (Wikipedia) |
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TRS-80 model I (雑誌広告) |
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TRS-80 model I・II (雑誌広告) |
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世界初のパソコンは、米MITS社のAltair 8800ですが、日本初のパソコンと言われるのは日立のベーシックマスターです。ショップブランドレベルでは、ソフィア開発アスターインターナショナル発売のコスモターミナルDが前年には発売されていますし、1978年4月に発売された国際データ機器のpasona-1やビジネス向けパソコンでは、SORDのM200などが既に出ていました。しかし、個人向けで大手家電メーカーが発売した最初のパソコンは、日立のベーシックマスターです。定価は、4KB RAMを搭載して188,000円とコスモターミナルDの299,000円(1KB RAMモデル)に比べると安いとはいえ、当時の貨幣価値(1978年の大卒初任給は、105,500円だったようです)を考えるとなかなか個人で買える値段ではなかったでしょうね。
CPUは、日立のHD46800(750kHz)というモトローラのMC6800互換CPUです。
ROMは、8KBで4KBがモニタ(起動システム等)で4KBがL1BASICです。
RAMは、4KBですが、予約した人には8KBで出荷したようです。
表示能力は、32文字×24行のモノクロでサウンド機能は、3オクターブの単音、データレコーダは300bpsだったようです。このパソコンは、家庭用テレビをモニタとして利用できます。(専用のキャラクタディスプレイもあったようです)
このパソコンを制作したのは、日立製作所のコンピュータ部門ではなく、テレビ部門だったようです。(シャープのX1も栃木県のテレビ事業部が開発しています。当時、パソコンは、真っ当な家電製品とも利益が出るとも思われていなかったようで、NECのPC-6000シリーズは子会社の新日本電気がPC-8000シリーズやシャープのMZシリーズは部品部門が開発しています。家電メーカーがパソコンに本腰を入れるようになったのは、NEC PC-8001の成功を見てからだったのではないかと思います)
翌年(1979年)2月には、レベル2BASICを搭載したベーシックマスターレベル2が228,000円で発売されました。
レベル2BASICは、浮動小数点演算などの機能が追加されたもので、BASICのROMが4KBから12KBへ拡大され、RAMも8KBが標準になりました。
また、初代ベーシックマスターのユーザー向けにレベル2へ拡張するキットが発売されたようです。
当時のBASICを大雑把に分類すると下記のようになります。
・Tiny BASIC(ROMまたはBASICインタプリタサイズ:4KB以下):メモリが高価だった時代に少ないメモリで実行できるよう簡素化されたBASIC。
・Level1 BASIC(8KB程度):整数BASIC。実数が使えませんが、演算命令の実行クロックが少ないため高速に動作しました。
・Level2 BASIC(12KB程度):浮動小数点演算が可能になったBASIC。実数が扱えるようになり、より実用的になりました。
・Level3 BASIC(16KB以上):サイズも含めて定義は曖昧なのですが、Level2 BASICをベースにグラフィックやサウンドを制御するような拡張命令が加えられたものというイメージです。
・10進BASIC(32KB程度):パソピアのOA-BASICやFP-1000シリーズのBASICなど、10進演算をサポートしたBASICもありました。浮動小数点演算で発生する計算誤差がないため、経理業務のような計算誤差が問題になる業務で使うためのBASICです。計算誤差が発生しない代わりに演算のリソース(実行クロックだけではなくメモリも消費します)が大きく、速度が遅いです。当時のパソコン雑誌に載っていたBASICプログラムによるベンチマークテストでは、整数BASICのSORD M5がトップで10進BASICのFP-1100がビリという結果だったと思います。
さらに翌年(1980年)の12月には、ベーシックマスターレベル2IIが148,000円で発売されました。 標準RAMが16KBになり、価格が下げられたモデルです。
このベーシックマスターレベル2IIの直接の後継機が1981年の12月に89,800円で発売されたベーシックマスターJr.です。
256×192ドットのグラフィック機能の追加とオプションを搭載することで8色のカラー表示ができるようになったモデルです。
1980年には、ベーシックマスター レベル3が発売されていたので、廉価モデルとして発売されたようです。
早くから個人向けパソコン市場を開拓していた日立ですが、今一つ当時のユーザーのニーズを掴みきれずに1980年代にはマイナーメーカーへと転落してしまいます。
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ベーシックマスター (Wikipedia) |
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ベーシックマスターレベル2 (雑誌広告) |
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シャープのMZ-1500まで続くMZ-80K系の初代モデルが、MZ-80Kです。
MZ-80Kの前にシャープは、MZ-40Kという4ビットCPUのマイコンキットを1978年5月に発売していました。
MZ-40Kは、フルキットのワンボードマイコンです。(ケースも付属していたようです)
技術者向けのトレーニングキットというより、低価格な玩具として作られた製品だったようです。
更にシャープは、SM-B-80TというZ80を搭載したワンボードマイコンを1978年12月に発売しています。(こちらは、出来ることが限られていたMZ-40Kと違い、TK-80とほぼ同じコンセプトのトレーニングキットだったようです)
1978年10月に発表されたMZ-80Kは、本体、ディスプレイ、キーボード、データレコーダが一体型のオールインワンタイプのパソコンです。
オールインワンパソコンとしては、PET 2001から始まるコモドールのPET/CBMシリーズなどがありました。
このパソコンは、Commodore PET 2001を手本に作られたと思われる点が見受けられます。オールインワンパソコンであるという以外にもキーボードが格子状で配列が似ている点や付属のS-BASICがPET 2001のCommodore BASICと命令セットが似ている点などです。
MZ-80Kは、セミキット販売でユーザーがハンダ付けや組み立てを行う必要がありました。
ワンボードマイコンを開発していた部品部門が開発したので、キット販売という体裁を繕ったという話もありますね。当時のシャープでは、情報システム事業部がコンピュータを扱っていたので、社内での摩擦が起きないようにと配慮されたのではないでしょうか。
CPUは、シャープのLH0080(2MHz)というZ80のセカンドソースです。
ROMは、モニタに4KBとキャラクタROMが2KB、RAMは20KB、テキストVRAMが1KBです。
表示能力は、テキストが40文字×25行のモノクロでグラフィック機能はありません。
サウンドは、3オクターブ単音。キーボードは、マトリクス配列(格子状キー配列)でした。
内蔵のデータレコーダは1,200bpsで、この当時としてはかなり高速な部類に入ります。ソフトウェア制御によるパルス幅変調(PWM)方式で記録を行い、エラーが少ないのもMZ/X1シリーズのデータレコーダの特徴となります。シャープのパソコンは、BASICをROMに持たないクリーンコンピュータと呼ばれる方式を採用していたので、データレコーダの速度や信頼性は重要だったのでしょう。
クリーンコンピュータのパソコンは、BASIC等のROMは不要ですが、その分RAMを多く搭載する必要があります。
例えば、BASIC ROMが32KBでRAMが32KBのパソコンがあったとします。
そのパソコンを同等のフリーエリアを持ったクリーンコンピュータにするには、RAMを64KBにする必要があります。
BASICを使う為には、BASICシステムプログラムをデータレコーダやフロッピーディスクドライブ等から読み込む必要がありますが、BASIC以外のプログラムを使う場合、前者では32KBのRAMしか使えませんが、クリーンコンピュータでは64KBまでRAMを利用可能というメリットがあります。
また、BASICのバージョンアップやBASIC以外の言語を使うことも容易です。
実際、初期のMZシリーズには、シャープのS-BASIC以外にもHu-BASICやHu-BASICコンパイラ、Tiny Pascal、Tiny Fortran、PALL、FORM、GAME等の言語がサードパーティからも供給されていました。
しかし、クリーンコンピュータは、互換性のために複数のBASIC ROMを搭載したりする必要がないというメリットがありましたが、半導体価格が下落して、低価格なパソコンでも64KB搭載が当たり前になり、バンク切り替えや簡易MMUでメモリを不自由なく使えるようになる頃には、特にメリットとも言えなくなってしまいました。初期のMZシリーズやX1シリーズがMMUを搭載して大量のメモリを扱えるように設計されていたら、クリーンコンピュータの本領を発揮し、他機種に対してアドバンテージを得られたかもしれませんね。
ちなみにクリーンコンピュータは、前向きな理由ではなく、BASIC ROMにバグがあった場合にROM交換等が発生するリスクを考えて採用されたようです。実際、PC-8001のN-BASICを始めROM BASICを搭載した機種には、バグがあることがありました。(殆どの機種で何かしらのバグがあったのではないかと思います・・・)しかし、リコールのような形で無償でROMを交換したという話は聞いたことがありません・・・。
1979年11月にMZ-80Cが268,000円で発売されました。
MZ-80Kに対して、完成品出荷となり、RAMが48KBへ拡張され、モニタがグリーンディスプレイになり、キーボードも使いやすいもの(マトリクス配列から、タイプライター風のキー配列)に変更されています。
1980年9月には、MZ-80K2が198,000円で発売されました。
MZ-80Kの直接の後継機で、こちらもMZ-80Cと同じく完成品出荷で、RAMが32KBになった以外は、MZ-80Kと同じスペックです。
1981年10月には、MZ-80K2Eが148,000円で発売されました。
このパソコンは、MZ-80K2の廉価版です。価格が安くなった以外は、カラーリングが変更されています。
1982年7月には、MZ-1200が148,000円で発売されました。この機種以降は、部品事業部からパソコン事業を移管された情報システム事業部によって開発されているようです。
このパソコンは、海外向け輸出モデルMZ-80Aを国内向けにリファインしたモデルのようです。
VRAMアクセスにサイクルスチール方式を採用し、映像の乱れを抑える変更がされている他、モニタがグリーンモニタに変更されています。搭載メモリは、32KBです。
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MZ-80 (Wikipedia) |
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MZ-80C (雑誌広告) |
https://tsujim.nagahama.shiga.jp/retropc/MZ-80C.jpg |
テキサス・インスツルメンツ社(TI)は、アメリカ合衆国テキサス州ダラスに本社を置く半導体メーカーです。 当時は、自社の半導体を使い、ミニコンや電卓を作っていましたが、1979年6月にホビーパソコンTI-99/4を1,150ドルでリリースしました。
TI-99/4は、日本でも1980年4月に218,000円で発売されました。
このパソコンの大きな特徴は、TIのTMS9900という16ビットCPUを搭載している点です。
TMS9900のレジスタは、プログラムカウンタ(PC)、ワークスペースポインタ(WP)、ステータスレジスタ(ST)の3本(いずれも16bit)しかなかったようです。汎用レジスタに該当するのは、WPで指定されたメモリで、TI-99では、256バイトの高速なスクラッチパッドメモリ(現在のCPUキャッシュメモリのようなもの)を持っていました。バスに直接マッピングされているのは、ROMとこのスクラッチパッドメモリだけだったので、他のパソコンと同じようにスペックを語るなら、メインメモリ256バイトとなります。
しかし、256バイトではあまりにも少ないため、VDP(TMS9918)にVRAM兼用で16KBのメモリが接続されています。
ROMは、BASICや電卓プログラム等の26KBが内蔵されており、ROMカートリッジでは30KBまで利用可能です。
表示は、32文字×24行で15色までの色が使えました。グラフィックはPCG(Programmable Character Generator:プログラマブル・キャラクタ・ジェネレータ)による疑似グラフィックとスプライト機能がVDPに内蔵されていました。スプライト機能は、16×16ドット15色中1色で32枚(水平方向には4枚まで)です。
サウンドは、TMS9919が搭載され、矩形波3音(5オクターブ)、ノイズ1音でした。このサウンドチップは、後にSN76489(DCSG:Digital Complex Sound Generator)と改名され、様々なパソコンやゲーム機に搭載されていきます。
また、オプションで音声合成ユニットが発売されていて、この機種の売りにもなっていたようです。
キーボードは、電卓のようなキーのチクレットキーボードでした。この手の初期のホームコンピュータにチクレットキーボードが多いのは、オーバーレイシート(キーの機能が表示されたキーボードに被せるシートでアプリケーションソフトによってシートを使い分ける)を使うためです。
このあたり、日本で言えば、PC-6001のような存在だったのかもしれませんね。
TI-99/4は、電源を投入するとタイトル画面が表示され、何かキーを押すと、
1 FOR TI BASIC
2 FOR EQUATION CALCULATOR
のメニューが表示されます。1を選択するとBASICが起動し、2を選択すると電卓プログラム(我々がイメージするような電卓プログラムではなく、計算式を入力するタイプです)が起動します。また、ROMカートリッジを差して起動すると、メニューに
3 FOR プログラム名
が追加され、3を選択することでROMカートリッジのプログラムを起動することができました。
BASICは、Graphics Programming Language(GPL)というインタプリタ言語を使って実装されていていました。GPLは、ROMカートリッジのソフトからも利用されAPIのように使われていたようです。
また、BASICを起動して入力したプログラムはVDPのRAMに格納されるため、BASICではVDPの性能をフルに発揮できませんでした。このような構造だったため、BASICの動作速度は非常に遅かったようです。
周辺機器は、プラグアンドプレイのような機構がサポートされ、周辺機器側にデバイスドライバのROMが内蔵されていました。当初は、周辺機器を本体右側に数珠繋ぎで拡張する方式でしたが、PEB (Peripheral Expansion Box) という5.25インチFDDを備えた拡張ボックスが発売され、拡張カードをPEBに差して増設する方式となりました。
1981年6月には、後継機TI-99/4Aが525ドルで発売されました。
VDPがTMS9918から、改良版のTMS9918Aに変更されています。この変更により、ビットマップモードが追加され、256×192ドット16色(横8ピクセル内は2色のみ)のグラフィック機能が追加されました。(TMS9918Aは、日本でもMSXを始めSEGA SC-3000やSORD M5、トミー ぴゅう太などに広く採用されています)
また、キーボードがタイプライター風なものへ変更され、TI-99/4で起動時に選択できた電卓プログラムが削除されています。
TI-99/4Aは、同時期に発売されたVIC-20との競争に晒されました。
コモドールのジャック・トラミエル氏は、電卓製造販売事業で受けた屈辱を晴らすべく、TI-99/4Aを敵視し徹底的な価格競争を行いました。
後期モデルは、コストダウンのためベージュ色のプラスチックケースに変更されましたが、焼け石に水だったようです。
TI-99/4Aは、最終的に280万台も出荷されたようですが、コスト競争で利益が出せず赤字だったため、TIはホビーパソコン事業から撤退しました。
予定されていた、TI-99/2やTI-99/8といった後継機も発売されませんでしたが、独特のユニークなアーキテクチャだったため、熱狂的なファンが存在したようです。
後にMSX2規格で採用されたTMS9918上位互換のV9938(アスキー、マイクロソフト、ヤマハの三社で開発されたVDP)を搭載した拡張ボードが発売されたようです。
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TI-99/4A (Wikipedia) |
https://ja.wikipedia.org/wiki/TI-99/4A |
ワンボードマイコンTK-80で成功したNECが発売したパソコンです。
TK-80シリーズでの知名度や高機能なBASICを搭載しコストパフォーマンスに優れたPC-8001は、商業的に成功しました。このパソコンと続くPC-8800シリーズが日本に於いてApple IIのような役割を果たしたのではないかと思います。
NECの完成品パソコンとしては、COMPO BS/80というTK-80ベースのパソコンを前年の1978年11月に238,000円(COMPO BS/80-A)で発売していましたが、このパソコンは、TK-80BSを完成品にしたような製品でした。
PC-8001は、NHK教育のマイコン入門という番組で登場していたことでも有名です。(番組内では、機種Xと呼んでいたようです)
個人的にパソコンサンデーは、毎週楽しみに視てましたが、こちらの番組は記憶にないです。
CPUは、NECのμPD780C-1(4MHz)というZ80A互換CPUです。(ザイログ社とのセカンドソース契約は結んでいなかったようです)
ROMは、24KBでモニタとマイクロソフト24K BASICの一種であるN-BASICを搭載、RAMは、16KB(うちテキストVRAM 3KB)を標準装備。
表示能力は、テキスト表示が80文字×25行の表示が可能で、160×100ドットのセミグラフィック機能(独立したグラフィックVRAMは搭載されておらず、テキストの簡易グラフィックモードでグラフィック文字を表示しています)も搭載されています。
カラーは、8色で2×4ドット単位での指定が可能です。アトリビュートによる色指定では、初代パソピアなんかも640×200ドットのグラフィック画面を持っていましたが、カラーは、8×8のセル単位でした。1979年に登場したPC-8001では、カラーに対応しているだけでもアドバンテージと言えたでしょう。サウンドは、ビープ音の矩形波1音(周波数変更不可)です。
PC-8001には、家庭用テレビに出力するRFモジュレータがオプションで用意されていました。
また、5.25インチのFDDを始め各種オプションが(この当時としては)他機種に比べて充実していた印象ですね。
長浜のパウにNECのショールームがあったので、PC-8001はそこで触ったことがあります。
初めて買ったBASICの解説書もN-BASIC対応だったこともあり、このパソコンとPC-8801には思い入れがあります。
PC-8001のメモリマップを見ると、0000hからの24KBがROMに割り当てられており、8000hからの16KBがRAMに割り当てられています。VRAMは、F300hからFEB7の約3KB(1KBはアトリビュート用です)に割り当てられています。PC-8001では、セミグラフィック時にアトリビュートエリアの制限があり、限界を超えると色が付かなくなったり意図した属性の表示がされません。
また、VRAMの先頭アドレスを変更できました。予めメインRAMの任意の場所にデータを書き込んでおいて、VRAMの先頭アドレスをそこに指定すると瞬時に表示されたかのように見せるテクニックがあったようです。(パレット機能を持つ機種では、同じようなことが可能です)
PC-8001は、4MHzのZ80Aを搭載していましたがメモリへのアクセスにウェイトがかかっていたため、同じ4MHzのZ80A互換CPUを搭載したMZ-2000やX1に比べて動作が遅くなっていました。上位機種のPC-8801にもメモリアクセスが遅いという欠点は受け継がれています。(むしろ高解像度グラフィックと大きなメモリを搭載したPC-8801のほうが問題が顕著に現れたと思います)
1983年1月に後継機のPC-8001mkIIが123,000円で発売されました。
グラフィック関係の機能を強化したN80-BASICを搭載したため、ROMが32KB(N-BASICの24KBに8KBのN80-BASIC拡張機能が追加されている)に増え、RAMも64KBが搭載され、VRAMも16KBになっています。
グラフィック機能は、PC-8001と同じ160×100ドット・2×4ドット単位で8色の他、320×200ドット・ドット単位4色、640×200ドットでは、1文字単位で8色となっていました。前年に発売された同価格帯のFM-7(126,000円)が640×200ドット・ドット単位8色のグラフィック機能を持っていたため、ホビーパソコンとしては、見劣りがするモデルとなってしまいました。
サウンドもPSGを搭載していたFM-7に比べて、矩形波1音(BEEP音、周波数変更不可)と旧機種と同じです。
1985年1月には、PC-8001mkIISRが108,000円で発売されました。
ROMがPC-8001mkIIの32KBにN80SR-BASICの40KBが追加され、RAMは64KBでVRAMはこの頃の8ビットPCでは標準的な48KBとなっています。
グラフィック機能は、N80SRモードが追加され、640×200ドットでドット単位8色または、320×200ドット8色2画面(プライオリティ機能付)の画面モードが使えるようになりました。
サウンド機能もFM音源 YM2203(OPN)を搭載し、FM3音+SSG3音+ノイズ1音と一気にパワーアップされました。
画面表示にサイクルスチール回路を導入するなど、機能面だけではなく高速化も行われました。
しかし、同時期に発売されたPC-8801mkIISRに注目が集まったため商業的に成功せず、最後のPC-8000シリーズとなってしまいました。
PC-8001mkIISRは、320×200ドット・2画面のようなグラフィックモードを持たないPC-8801mkIISRよりもアクションゲームに向いていましたが、不人気機種だったため、その機能を活かした専用ゲームが少なかった惜しいパソコンです。
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PC-8000シリーズ (Wikipedia) |
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元々は、Atari VCS(Video Computer System)の後継機(ゲーム機)として開発が開始されたようですが、市場調査の結果、ホームコンピュータへと方向転換したようです。(アタリ社のCEOレイ・カサール氏の意向によるものという説もあります)
1977年にAtari VCSが発売されたとき、このゲーム機の寿命は2年程度と考えられていましたが、実際には1982年に後継機のAtari 5200が発売された後も現役でした。日本では、1983年に日本版のAtari 2800が発売されていますし、1984年には廉価モデルのAtari 2600 Jrが発売されました。
Atari VCSは、70年代は売れ行きが悪かったのですが、80年代に入るとスペースインベーダーやパックマンの移植、サードパーティ制の導入などで大ヒットしました。
Atariは、ローエンド向けのコードネーム「キャンディ」とハイエンド向けのコードネーム「コリーン」の開発を行い、それぞれAtari 400とAtari 800として発売しました。
当初、Atari 400は4KB、Atari 800は8KBで発売する予定だったようですが、DRAM価格が下がったため、Atari 400は8KB、Atari 800は16KBで発売されました。
アメリカでは、電波干渉するRFモジュレータを搭載したパソコンに対しFCC(Federal Communications Commission:連邦通信委員会)が厳しい規制を行う予定(1981年1月から施行)だったため、Atari 400/800では、カートリッジスロット付近にアルミダイカストでファラデーケージを形成しています。
Atari 400は、メンブレンキーボードを搭載した廉価版モデルで、CPUは、モステクノロジーのMOS6502B(1.79MHz)、RAMは8KBです。1.79MHzというCPUクロックは、NTSC(3.58MHz)の1/2ピクセルクロックで、任天堂ファミリーコンピュータと同じ速度です。1979年時点で考えるとこのパソコンは、かなり高速だったのではないかと思います。(同じCPUのApple IIは1.02MHz、VIC-20やコモドール64も1.02MHzでした)
表示能力は、テキストが40文字×24行・256色中2色~20文字×12行・256色中5色、グラフィックは、320×192ドット・256色中2色~160×96ドット・256色中4色までの複数のモードがあります。
Atari 400/800は、文字やビットマップグラフィックを表示するためのANTIC(AlphaNumeric Television Interface Controller)とAtari VCSに搭載されていたTIA(Television Interface Adaptor)を強化したCTIA(Color Television Interface Adaptor)というグラフィックチップを搭載しています。
Atari 400/800は、1970年代に登場したパソコンのため、画面表示に奇妙な実装がされています。ラインごとのカラー指定(モード指定)や特定の文字だけをカラー表示したりする機能があるようです。CTIAは、幅8ドットのスプライトを4個と幅2ドットのスプライト(ミサイルスプライト)を4個まで表示できます。スプライトのサイズについては、幅は8ドットまたは2ドットですが、高さは画面の上から下までとなっています。スプライトに対する着色もライン毎のようです。
サウンドは、POKEY(Pot Keyboard Integrated Circuit)と呼ばれる8bit4チャンネル(16bit2チャンネル、16bit1チャンネル8bit+2チャンネルも可)のカスタムチップを搭載しています。(Atariの一部アーケード基盤やAtari 5200にも搭載されています)
POKEYは、I/Oチップとして設計されており、サウンド機能の他には、シリアルI/O(SIO)の制御やキーボードのスキャン、パドル型コントローラーのポテンショメータ(この頃は、PONGやブロック崩しのようなパドル型コントローラで操作するゲームが多かったため、その回転角を検出する必要がありました)なども行っているようです。
周辺機器を接続するためのSIOポートは、フロッピーディスクドライブやプリンタ、データレコーダなどをディジーチェーンで接続することができました。この方式はスマートですが、専用品が必要になってしまうため、コストが高くなります。特にデータレコーダのようなものは、安価な汎用品を使えないためユーザーから見ればマイナスポイントだったのではないかと思います。
Atari 800は、Atari 400に対して、キーボードがタイプライター風となり、メモリ16KB搭載、カートリッジスロットが2つ、本体内部の拡張スロットがAtari 400の2つから4つに増えています。
2つのカートリッジスロット持った機種は、シリーズ中Atari 800だけで右スロットに使用できるカートリッジは、ほとんど無かったようです。(数少ない右スロット用カートリッジの中には、Atari BASICで使用可能な80桁のエディタなどがあったようです)
拡張スロットは、基本的にシステムROMと増設メモリに使われていたようですが、初期の拡張カードはプラスチックのケースに入れられてユーザーが直接基盤に触れないように配慮した構造になっていました。しかし、熱がこもりシステムの安定性が損なわれることが判明したため、基盤が剥き出しの拡張ボードが使われるようになりました。メモリ価格が下がると拡張スロットにメモリを増設したモデル(48KB)が販売されました。Atari 400も後期モデルでは16KBのメモリが実装されていたようです。
CPUやVDPもドーターボードで接続されていました。分解しないとアクセスできない位置にスロットがあったのですが、ゲームパソコンのような見た目に反してFM-11のような拡張性の高い設計になっていたようです。しかし、この後に登場するAtari 8ビット・コンピュータシリーズの機種は、コストダウンのためワンボード化されてしまいました。
BASICは、ROMカートリッジで供給され、内容は、マイクロソフトの6502版12K BASICを8KBへ縮小したAtari BASICです。(ROMカートリッジを何も差さずに起動すると「MEMO PAD」というメモ帳アプリが起動しました)
600XL/800XL以降は、BASIC ROMを本体に内蔵しているようです。
また、フロッピーディスク環境では、Atari DOSという独自のディスク・オペレーティング・システムが用意されていました。
Atari 400/800は、1980年代に入ると競合他社との価格競争に巻き込まれます。(特にコモドールVIC-20とTI-99/4Aの熾烈な価格競争の余波を受けたようです)
FCCの電波干渉防止規格前に発売されたAtari 400/800は、頑丈なアルミダイカストを使っていましたが、実はこれはオーバースペックだったため、コストダウンが急務となります。(複数の基盤から構成されていたこともコスト要因となっていました)
Atariは、コストダウンを実現するため、「Sweet 8」と「Sweet 16」というプロジェクトを開始しました。
その結果、1983年1月に1200XLという機種を899ドルでリリースします。(売れ行きが悪かったため、899ドル→695ドル→599ドルと段階的に値下げされたようです)ワンボード化して、64KBのメモリを搭載し、自己診断プログラムを内蔵したモデルです。ROMカートリッジを何も差さずに起動してもAtari 400/800のように「MEMO PAD」は起動しません。HELPキーを押すと自己診断プログラムが起動します。
また、CTIAがGTIA(Graphic Television Interface Adaptor)にアップグレードされたことで、3つの画面モードが追加され、同時に使える色が増えました。
この価格は、前年8月に発売されたコモドール64(C64)よりもずっと高価(この頃、C64は250ドル程度で販売されていたようです)で、メモリは64KBに増えているものの、1979年に発売されたAtari 400/800と実質同じスペックの1200XLはコストパフォーマンスの悪さから苦戦します。(価格競争で安くなっていたAtari 400/800のほうが売れていたようです)
互換性に問題があったこともあり、1200XLは1983年中に販売中止となりました。
Atariは、1983年のコンシューマー・エレクトロニクス・ショー(CES)で、600XL/800XL/1400XL/1450XLDといった新機種を発表しましたが、発売が遅れ1983年のクリスマス商戦に大量に投入できないという事態になりました。結果的に1983年のクリスマス商戦で勝利したコモドール64の独走を許してしまったようです。また、1400XL/1450XLDについては、結局発売されませんでした。
1983年の10月に600XL、11月に800XLが発売されました。600XLは、16KBのメモリを搭載したAtari 400の後継モデルで、価格は199ドルで発売されました。800XLは、メモリが64KBで価格は299ドルです。どちらのモデルにもBASIC ROMが内蔵されています。これらの機種のメモリ容量以外の違いは、コンポジットビデオ出力端子が800XLには追加されている点です。
1982年末に起きたアタリショック(Video game crash of 1983)により経営が悪化したワーナー・コミュニケーションズ(アタリの親会社)は、1985年に家庭用ゲーム・パソコン部門を社内政治に破れコモドールを追放されたジャック・トラミエル氏が設立したトラメルテクノロジー(Tramel Technologies, Ltd.)に売却しました。
トラメルテクノロジーに買収されアタリコープ(Atari Corp)と社名が変更されたアタリのパソコン部門から、1985年にAtari 65XEとAtari 130XEが発売されます。これが最後のAtari 8bitコンピュータとなりましたが、1987年にはゲーム機のAtari XE Game Systemが発売されています。また、ゲーム機のAtari 5200には、GTIAやPOKEYといったAtari 8bitコンピュータと同じカスタムチップが搭載されていて、互換性は無いものの実質的に同じハードウェアでした。
コモドール社もコモドール64をゲーム機化したCommodore 64 Games System(C64GS)を発売していますし、英アムストラッド社のAmstrad CPCにもThe Amstrad GX4000というゲーム機があります。AmigaにもAmiga CD32というゲーム機がありましたね。
海外では、ヒットしたゲームパソコンの派生ゲーム機をリリースするというパターンが多いようです。
日本では、富士通 FM TOWNSの派生機FM TOWNS マーティーが有名です。ピピンアットマークもMacintoshのゲーム機と言えますね。古くは、SEGAのSC-3000に対するSG-1000やぴゅう太にもキーボードを取り去ったゲーム機のぴゅう太Jr.がありました。
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Atari 8ビット・コンピュータ (Wikipedia) |
https://ja.wikipedia.org/wiki/Atari 8ビット・コンピュータ |
レトロパソコン(基礎知識編) |
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