Appleは、1970年代の終わりに次世代製品開発のため、3つのプロジェクトをスタートします。
1) Apple IIの後継機 → 「Sara」プロジェクト
2) 技術的に妥協しない高性能機 → 「Lisa」プロジェクト
3) 低価格なホームコンピュータ → 「Annie」プロジェクト
この中で、一番目の「Sara」プロジェクトから誕生したのが、Apple IIの後継機「Apple III」です。
ただ、 Apple IIIは、Apple IIの後継機として開発がスタートしていますが、 初期モデルの価格が$4,340~$7,800(後期モデルのApple III plusは、$2,295から)とApple IIよりもずっと高価で、性能もよりビジネス向けでした。そのため後継機というより、上位機種といった印象だったのではないかと思われます。
Apple IIとの互換性もありますが、48KBのApple II plusのエミュレーションに限定されていたため、動かないソフトも多かったようです。
Apple IIIの開発は、ウェンデル・サンダー博士の指導の下に、1978年後半に始まりました。
このパソコンが発売されたのは、1980年5月19日ですが、発売直後から深刻な安定性問題により、設計の見直しおよび既存マシンのリコールが必要だったため、1980年秋に正式に再導入されました。
静粛性を重視したため、冷却ファンを持たず、通気孔も設けない設計だったため、放熱に問題があったようです。最終的には、この問題を解決した製品を生産できたようですが、市場の評価は回復せずにApple IIIは商業的に失敗します。
CPUは、モステクノロジーMOS6502の互換CPU(Synertek 6502AまたはB)で、動作クロックは1.8MHzです。
メモリは、バンク切り替えを使い128KBが標準、純正では256KBまで拡張可能(サードパーティ製のメモリ・アップグレード・キットを使えば512KBまで)でした。
OSは、Apple SOS(Sophisticated Operating System)というApple III専用OSです。
このOSは、階層型ディレクトリに対応し、CUIながらプルダウンメニューを搭載するなど、当時としては先進的なOSだったようです。Apple IIIが商業的に失敗したため、Apple SOSの技術は、Apple IIの新OS(ProDOS)へ引き継がれました。
1983年12月には、Apple III Plusが発売されました。
メモリは、標準で256KB搭載され、キーボード等が変更されていたようです。
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Apple III (Wikipedia) |
https://ja.wikipedia.org/wiki/Apple_III |
タンディ・コーポレーションが1980年に発売した家庭用ホビーパソコンです。
TRS-80という名前が付いていますが、TRS-80 model Iとの互換性はなく、CPUもZ80ではなくモトローラのMC6809Eを搭載しています。日本では発売されませんでしたが、海外ではCoCoという愛称で親しまれ、現在でも熱心なファンが居るほどです。
TRS-80 Color Computerの成り立ちは、1977年に低コストなホームコンピュータを開発するため、テキサス州フォートワースのタンディコーポレーションとテキサス州オースチンのモトローラ・セミコンダクター社の合弁事業として始まりました。
「Green Thumb」と呼ばれるプロジェクト(ケンタッキー協同組合とケンタッキー大学・農学部によるプロジェクト)は、最初は農業関係者のために低コストなビデオテックス端末を製作することでした。この端末は、電話回線とカラーテレビに接続することで、農場で日々の業務に役立つリアルタイム情報へのアクセスを可能にします。
このビデオテックス端末は、「AgVisionターミナル」という名前で1980年に発売されました。
AgVisionターミナルの情報がインターネットにもほとんど無いため、TRS-80 Color Computerと内部的にどれくらい違うのか不明ですが、TRS-80 Color Computerでは内蔵モデムが省かれているのは確かなようです。初期のケース(初期型はエンブレムやロゴが印刷されたステッカーが左寄りにあります)は同じものを共用しているため、モデムのDATAインジケータLEDがあった穴をマシンに搭載されているメモリ量を示すステッカーを貼ったカバー(RAMボタンと言うようです)で覆っています。
そして1980年7月31日、タンディはTRS-80 Color Computerを発表しました。「AgVisionターミナル」と同じケース、キーボード、レイアウトを共有しているため、一見しただけではTRS-80 Color Computerと見分けるのは難しかったようです。
TRS-80 Color ComputerのCPUは、モトローラのMC6809E(0.895MHz:NTSC3.58MHzの1/4ピクセルクロックです)で、RAMは、初期が4KB、後に16KBと32KBのモデルが追加されたようです。ROMは、マイクロソフトカラーBASICに8KBです。
VDG(VDP)にモトローラのMC6847を搭載(日本では、NEC PC-6001や三洋のPHC-25が採用)しており、表示能力は、テキストが32桁×16行の4色カラーでグラフィックは、256×192ドット2色から128×96ドット8色まで、8種類の画面モードがあります。
MC6809Eは、クロックジェネレータを持たないMPU(末尾E)なので、MC6883(SAM:Synchronous Address Multiplexer)チップセットを中心に構成されていました。SAMは、MPUやVDGのクロック生成・同期の他、DRAMやROM等へのアクセス制御を行っています。
BASICは、標準装備のマイクロソフトカラーBASICとオプションの拡張カラーBASICを利用できました。
サウンド機能は、6bitのDACです。DACは、D/Aコンバータのことで、デジタル信号をアナログ信号に変換することでアンプから音を鳴らす音声出力方式です。ファミコンのCPU(Ricoh 2A03)もMOS6502から10進演算回路を削除して、DACとDMAを追加したものです。PSGのような音源チップも内部にDACを持っています。デジタル信号をアナログ信号に変換して音を鳴らすという部分は同じだからです。ちなみにデータレコーダへの書き込みもデジタル信号を音声というアナログ信号に変換しています。逆にデータレコーダからの読み込みは、ADC(A/Dコンバータ)が行います。
複数のチャンネルが無いため、CoCoのゲームはBGMが無いか、BGMがあっても効果音が無いようなゲームが多い印象です。
背面には、プリンタ用のシリアルポートがあります。
また、CoCo1はホームコンピュータらしく、ROMカートリッジスロットを持ち、PC-6001のようなチクレットキーボードでした。
1982年末には、TDP System 100と呼ばれる白いケースのColor Computerが非タンディ店で売られたようです。
1983年には、白いケースでタイプライター風キーボードになったTandy Color Computer 2(CoCo2)が発売されました。メモリも16KB、32KB、64KBと各モデル共に拡張されています。
また、VDGもMC6847T1に強化され、小文字(lower case)の使用が可能になりました。
1986年に219.95ドルで発売された、Tandy Color Computer 3(CoCo3)では、CPUを従来の倍の速度で稼働させることができるようになりました。(ソフトウェアで制御可能)
RAMは、標準で128KB搭載しており、512KBまで拡張可能となりました。
CoCo3には、GIMEと呼ばれるメモリとグラフィックを管理するチップが搭載されました。
テキストは、80桁に対応し、グラフィックも640×192ドット4色から160×192ドット64色までの複数の画面モードを持っています。CoCo3は、1991年まで生産されたようです。
日本では無名なCoCoシリーズですが、海外ではクローンや姉妹機が登場するほどでした。
英Dragon Data社が発売した、CoCoの姉妹機「Dragon 32/64」などが有名です。
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TRS-80 Color Computer (Wikipedia) |
https://en.wikipedia.org/wiki/TRS-80_Color_Computer |
ベーシックマスターシリーズの後継機ですが、CPUがモトローラのMC6809に変更されており、従来モデルとの互換性は無くなりました。
キーボード一体型の本体ですが、拡張I/Oボックスも一体化されているため、かなり大きな筐体になっています。その形状と拡張性の高さから「和製Apple II」と呼ばれることもあったようですが、テンキーを含んだキーボードのためApple IIよりかなり大きそうですね。
このパソコンは、日立が御三家から転落する原因になったパソコンと言えます。
初代ベーシックマスターが188,000円でしたが、本体のみで298,000円というのは、シリーズとして見れば価格が上がりすぎだったのではないでしょうか。同年に発売されたレベル2II(148,000円)の上位機種という位置づけだったのかもしれませんが、同じユーザー層へ販売するつもりなら、同じくらいの価格にすべきだったと思います。
登場した時期も悪く、半年後に富士通からより低価格で高性能なFM-8が発売されたことを受けて、価格を大幅に改定したため、今までの価格は何だったのかとユーザーに受け止められてしまったと思います。この価格で独立したVRAMを持たない設計や640×200ドットでドット単位8色の指定ができなかったのも評価が下がる原因となりました。この当時のパソコンとしては高性能と言えるグラフィック性能なのですが、FM-8と比較されると厳しかったと思います。
また、グラフィックRAM兼用メモリのため、高精度なグラフィックモードを使うとメインRAMが極端に少なくなってしまいました。拡張性の高いパソコンだったので、必要なら増設してくださいというスタンスだったのでしょうが、アプリケーションソフトを提供するソフトウェア開発会社からすれば、オプションを増設しないと動かないようなソフトは、できれば作りたくないでしょう。
1979年に出たばかりの最新CPUであるMC6809を使った先進的なパソコンであったにも関わらず、上記のような問題により富士通に御三家の座を奪われることになった悲劇のパソコンです。
CPUは日立のHD6809というMC6809のセカンドソースでクロックは1MHzです。
RAMは32KBで、ROMはモニタとBASICに24KB、キャラクタ定義(CG-ROM)に4KBです。レベル3以降のベーシックマスターシリーズは、8×16ドットの平仮名の文字定義を持っていたようです。そのため、CG-ROMが4KBとやや大きくなっています。4KBのCG-ROMを持つ機種は、主にグラフィック文字が充実した機種です。8×8ドットの文字は1文字で8バイトの容量が必要になるため、256個までの定義ではROM容量が2KBとなります。ASCIIコードは7ビットなので128種類(実際には94種類)の文字や記号が登録されていますが、日本では、ASCIIコードを拡張した「JIS半角英数カナ文字コード(JIS X0201)」通称「ANK(Alphabet Numeric Kana)コード」でカタカタ等を定義していました。256個のうち残り128個にカタカナ等を定義しています。CG-ROMが4KBの機種は、更に特殊キーを押すと平仮名やグラフィック文字が使えるような機種です。平仮名の使えるPC-6001やコモドールのパソコン、MZ-700等も豊富なグラフィック文字により4KBのキャラクタ定義ROMを持っています。(この機種では、平仮名は8×16ドットで定義されていたようなので、豊富なグラフィック文字を持っていたというより、平仮名の文字定義に容量を割いているようです)
表示能力は、テキストが80文字×25行8色、セミグラフィックが160/80×100ドットで1文字単位に8色、グラフィックは、640/320×200ドット・8×1ドットの範囲で8色です。ドット単位で色指定できないのは、グラフィックRAMは1プレーンのみで色をアトリビュートで指定しているからだと思われます。アトリビュートとは、属性のことでテキストで文字単位に色指定できる当時のパソコンは、テキストVRAMの他にアトリビュートRAMを持っていました。グラフィックでも640×200ドット8色の場合、ドット単位で色指定を行う場合には、RGB各3プレーンのVRAMが必要となり、640×200=128000ビット→16000バイトなので1プレーンが約16KBで3プレーンあるため約48KB(メモリ容量の単位では、1Kが1024です)のメモリが必要ですが、アトリビュートRAMを使い1文字単位で色指定を行う場合には、1プレーン分のグラフィックRAM16KBと2KB程度のアトリビュートRAMで済みます。
また、このパソコンは、専用のVRAMを持たない設計で、メインメモリの一部をグラフィックRAMとして使うため、表示に多くのメモリを必要とするグラフィックモードを使うとフリーエリアが大幅に減ってしまいました。RAMが高価だったこの時代のパソコンでは一般的な設計です。世界的に見てもCommodore 64やSinclair ZX Spectrumといった大ヒットしたホームコンピュータも同様のセル単位での色指定を行う方式のグラフィックでした。両機種とも1982年に発売されたパソコンですが、低価格なホームコンピュータだったため、グラフィックに大量のRAMを使えなかったのでしょう。1982年と言えば、MC6809を2基搭載したFM-7がメインRAM64KB、VRAM48KBで発売されていますが、価格は126,000円でした。1982年頃の為替相場は、1ドル250円前後だったようなので米ドル換算だと500ドル前後となります。Commodore 64の価格が595ドルだったので、為替換算ではFM-7のほうが安いということになります。しかし、1982年の大卒初任給は、127,200円だったようなので、新卒で採用された新社会人の給料1ヶ月分に相当します。当時のアメリカの大卒初任給は、正確な金額を調べることができませんでしたが、軽く1,000ドルは超えていたようなので、日米の物価の差から見ればFM-7のほうが高価な製品だったのではないかと思います。ZX Spectrumのほうは、48KB版が175ポンドだったのですが、当時の英ポンドは、1ポンド400円くらいだったようです。(この頃、急激に円高になっているようです)175ポンドを日本円に換算すると7万円くらいです。FM-7は、315ポンドといったところでしょうか。BBC MicroのModel Bが375ポンドで高いと言われていたようなので、物価感覚としては日本に近かったのかもしれません。イギリスの低価格パソコンの代表とも言えるZX81が69.95ポンドで日本では38,700円で発売されています。単純に為替換算すれば、2万8千円くらいなので、パソコンが3万円未満なら当時としては安いと感じるでしょう。(ワンボードマイコンのTK-80が88,500円だったことを考えれば、5年後に8KBのBASICを搭載してTK-80の倍のメモリで値段は半額以下ですからね)1985年には、1ポンド250円程度まで円高になっていますので、実際には2万円を切る価格というような感覚だったのではないかと思います。
レベル3という名前の通り、BASICはレベル2よりも強化されていましたが、発売前にアナウンスされていたグラフィック関連の命令が削除されていたりしたようです。
また、キーボードのBREAKキーが誤って押してしまわないようにプラスチックのカバーでガードされていました。
翌年5月に640×200ドット8色(ドット単位で色指定可能)のグラフィックを備え、MC6809を2基とメインメモリ64KB(VRAMは48KB)を積んだFM-8がベーシックマスター レベル3よりも安い218,000円で発表されたため、日立は、ベーシックマスター レベル3の広告から価格の表示を外し、後に198,000円に価格改定しました。
1982年には、データレコーダの読み込み速度を1200bps(従来は600bps)にも対応させ、キーボードにステップスカルプチャ(人間工学に基づき、キーボードが前後に少し反った形状になっているもの)を採用したベーシックマスター レベル3 マークIIを発売しました。
更に1983年には、RAMを64KBに増加し、PCG(プログラマブルキャラクタジェネレータ)機能を追加した、ベーシックマスター レベル3 マーク5を118,000円で発売しましたが、市場ではマイナーな存在になっていました。当時の広告を見ると、「640×200ドットで8色表示。1ドット単位の着色が可能」と書いているので、メインメモリが増えたことで、640×200ドットでもドット単位で着色できるようになっていたようです。しかし、このドット単位で8色表示できるというのは本当だろうか?という疑問があります。そういう風に改良されたというソースが見つかりませんでした。もしかすると、PCGを使った部分だけ1ドット単位の色指定が可能という過大広告だったのかもしれません。
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ベーシックマスターレベル3 (Wikipedia) |
https://ja.wikipedia.org/wiki/ベーシックマスターレベル3 |
コモドールジャパンが日本で開発・販売したホビーパソコンです。
コモドールのCEOジャック・トラミエル氏は、過去の経験からアメリカのパソコン市場にも日本勢が低価格な製品を送り込んでくると予想し、先に日本で低価格な製品を出して日本市場の価格競争を激化させると共に日本で低価格パソコンを生産してアメリカでも安く売るという戦略を取ったようです。
結果的に見るとタイプライタや電卓のような単純な製品とは違い、OSやアプリケーションソフトなど複雑な要素が絡むためか、日本の製品がアメリカのパソコン市場を席巻することはありませんでした。 しかし、テレビゲーム機のような単純な製品は、ファミコン(NES)をはじめとした日本製品が大きなシェアを占めることになります。
VIC-1001のハードウェアは、PET 2001がベースになっているようです。ビデオやサウンド周りに新しいカスタムチップが使われていますが、その他はPET 2001とよく似たハードウェアです。
CPUは、モステクノロジーのMOS6502(1.02 MHz)で、RAMは5KB、ROMはKERNALとBASICに16KBとキャラクタ定義に4KB、ROMカートリッジスロットを持っていて、32KBまでのROMカートリッジを取り付けられます。
ちなみにKERNALは、「Keyboard Entry Read, Network, And Link」の略という説もあるようですが、実際には「VIC 20 Programmer's Guide」や「C64 Programmer's Reference Guide」など公式マニュアルの誤植から定着した単語のようです。OSのコアを指すカーネル(Kernel)から取ったのだと思いますが、KERNALはコモドールの8ビットパソコンの8KBのROMに入っているBIOSのような低レベルのハードウェア・インターフェイスです。
表示能力は、テキストが22文字×23行8色、グラフィックは、最大176×184ドット8色です。VIC-1001で表示できる色数は、基本的に8色ですが、Wikipediaにもバックグラウンドは16色とあるように非常に制限された状況で16色が利用できたようです。
サウンドは、矩形波3音(3オクターブ)、ノイズ1音で、映像機能とサウンド機能をVICと呼ばれるカスタムチップに集約しています。これがVIC-1001の語源にもなっています。矩形波3音は、3チャンネルとも各3オクターブですが、5オクターブの中で第1チャンネルが低音域の3チャンネル、第2チャンネルが中音域の3チャンネル、第3チャンネルが高音域の3チャンネルとチャンネルごとにレンジが違います。そのため、一般的な矩形波3音のサウンドジェネレータと同じように使うことができませんでした。
VIC-1001のBASICは、基本的にPET 2001のものと同じだったようです。その為、グラフィックやサウンドを制御する命令が用意されていませんでした。
キーボードは、この当時の低価格ホビーパソコンとしては珍しいタイプライター風キーボードを採用しています。また、モニタとして家庭用テレビを使用できます。
特徴的なケース形状は、ブレッドビンまたはブレッドボックスと呼ばれ、後のCommodore 64やCommodore 16に受け継がれます。
VIC-1001は、初期の低価格パソコン市場で一定の評価を受けましたが、翌年にはNECがPC-6001を発売したため、瞬く間に市場を奪われてしまったようです。(49,800円に値下げしましたが、あまり効果は無かったようです)
VIC-1001は、アメリカでは、VIC-20という製品名で1981年に発売されました。
VIC-20は、1982年に販売台数が1位になるくらい1980年代初頭のホビーパソコンとしては売れました。最終的には、250万台程度売れたようです。(世界初の100万台以上販売したパソコンだったようです)
この成功が、後に(単一機種としては)世界で一番売れたと言われるCommodore 64の大成功に繋がったのではないでしょうか。
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VIC-1001 (Wikipedia) |
https://ja.wikipedia.org/wiki/VIC-1001 |
イギリスのシンクレア・リサーチは、1980年にZX80という低価格パソコンを発売しています。ZX80は、組立キットとして発売され、完成品の販売も行っていました。99.95ポンドと100ポンドを切る低価格だったため、バックオーダーを抱えるほどの注文があったようです。(18ヶ月で10万台を販売)
そして翌年、1981年3月に後継機ZX81を発売します。
余談ですが、シンクレア・リサーチは、丁度、この頃社名をSinclair Researchに改称しました。
クライブ・シンクレア氏が1961年に設立した会社は、Sinclair Radionicsでしたが、1973年9月にAblesdealという企業を買収し、別会社としていました。Ablesdealは、1975年8月に社名をSinclair Instrumentへ改称しました。
その翌年、Sinclair Radionicsは、国家企業庁に買収されシンクレア氏は経営権を失いますが、別会社だったSinclair Instrumentを経営していきます。1977年7月、Sinclair Instrumentsは、社名をScience of Cambridgeに改称し、1980年11月には、ZX80の成功によりSinclair Computersに改称しています。そして、ZX81が発売された1981年3月にSinclair Researchに改称したわけです。
このパソコンは、CPUがZ80(3.25 MHz)でRAMは、1KBです。ROMは、BASIC等に8KBで、パソコンというよりは、家庭用テレビに繋ぐBASIC学習用教材といった趣の製品だったようです。日本のパソコンで言えば、松下通信工業のJR-100に近い設計思想ですね。特殊キーとの組み合わせや入力モードにより、対応したBASICコマンドが簡単に入力できる点も似ています。
ZX81は、CPU、ROM、RAM、SCLの4種類のチップだけで構成されています。
SCL(Sinclair Computer Logic)と名付けられたULAチップは、ゲートアレイとも呼ばれるカスタムチップ(ASIC:Application Specific Integrated Circuit、特定用途向け集積回路)の一種で、画面表示の同期やクロックジェネレータ、データレコーダの入出力やキーボード押下の検出など、I/O周りやシステムのタイミング制御等に使われています。(SCLは、基本的にZX80の部品点数を減らしコストダウンするためのチップです)
また、キーボードは、メンブレンキーボードを採用しています。このキーボードは、タッチセンシティブなもので一般的なメンブレンキーボードとは触れたときの感触が若干違います。
ケースは真空成形だったZX80から射出成形となり、少し頑丈になっています。搭載チップが減ったことで、基板が小さくなりケースのサイズも縮小されています。
ケース背面には、拡張スロット用のエッジコネクタがあり、主に拡張RAMモジュール用として使用されました。
その他のコネクタは、すべてケース左側面に配置されており、奥からTV(RF)出力端子(RCA端子)、カセットテープデータレコーダ用のイヤホン端子(EAR)とマイク端子(MIC)、ACアダプタ接続端子があります。TV出力端子以外の3つの端子は、ミニジャック端子のため、ACアダプタを接続する場所を間違うと故障する可能性がある設計でした。このあたりにも極限までコストダウンをしていることが感じられます。
ZX80との違いは、ULAによりチップ数が21個から5個(RAMチップが2個の場合)にシュリンクされたこと以外にもROMが4KBの整数BASICから8KBの実数BASICに変更されました。
更にSLOWモードが追加され、画面の描画を行いながらCPUが他の処理を行うことができるようになっています。
ZX80は、画面を描画する動作とCPUが計算を行う動作が別れており、CPUが計算しているときには画面表示が行えませんでした。画面が止まるのではなく、何も表示されません。動作が切り替わるときには、画面がチラつく現象が起きるため、BASICでキーを押す度に画面がチラつきました。
SLOWモードは、それを解消するためにCPUの処理をタイムシェアリングすることで、CPUパワーの約7割を画面描画、残り約3割でプログラム処理を行い画面表示を維持しながらプログラムを実行することが可能となりました。
ZX80には、CRTCのようなビデオチップが搭載されておらず、CPUがシフトレジスタを使って描画を行っていました。(ZX81もその機能をULAに含めただけなので、基本的に同じハードウェアです)
シフトレジスタとは、主にシリアル-パラレル変換などに使われる回路のことで、フリップフロップ(1ビットの情報を保持する論理回路)をカスケード接続し、データがその回路内を移動していく構成になっています。
ZX80では、CPUが8ビットのパラレルデータ(字形定義情報のビットパターンなど)をシフトレジスタ(IC9:ZX80の回路図でシフトレジスタはIC9と呼ばれていました)に渡すとIC9は、6.5MHz(CPUの2倍)のクロックで1ビットずつ表示回路にシフト出力されました。
ZX81は、RAMが標準で1KBしかないため、BASICのプログラムを入力する際、1行ごとに構文をチェックし、間違いがあるとメモリに格納されませんでした。メモリに格納する際もトークン化(コマンドを1バイトのコードとしてメモリに格納することでソースリストの文字列が圧縮され、実行時の効率も上がります)を行いメモリを節約しています。(これはインタプリタ言語でよく見られる手法です)
表示能力は、テキスト表示で32文字×24行と64×48ドットのセミグラフィック表示ができます。
テキストやグラフィック文字を画面全体に表示すると最大768バイト(32x24=768)のRAMを消費します。システム変数用に125バイト必要なため、デフォルトの1KB RAMでは、プログラムに使える領域が殆ど残りませんでした。そのため、16KBの拡張RAMモジュールがシンクレア・リサーチから発売されています。(シンクレア・リサーチが発売した純正の周辺機器は、拡張RAMモジュールと放電破壊プリンタのZX Printerくらいだったようです。サードパーティからは、数多くの周辺機器が発売されていて、シンクレア・リサーチは周辺機器による利益を機会損失していたようです。後にMemotech MTXシリーズなどのホームコンピュータを発売するメモテック社もシンクレア製品の周辺機器を販売していた企業です)
ZX80を発売したときに生産が需要に追い付かなかったため、ZX81では時計メーカーの米タイメックス社のスコットランド・ダンディーにある工場で生産されたようです。
シンクレア・リサーチは、当初このパソコンを通販で販売していましたが、W・H・スミスという大型書店でも取り扱うようになり、爆発的な人気を呼びます。
ZX81は、最終的に150万台程度売れたようです。クライブ・シンクレア氏は、これらの成功で1983年に勲爵士に叙されます。
80年代のイギリスは、一般家庭へのコンピュータ普及率が世界一でしたが、その下地を作ったのがこのパソコンだったのではないかと思います。
アメリカでは、タイメックスとシンクレアの合弁会社がTimex Sinclair 1000(標準RAM容量が2KBとなり、99.95ドルで販売されました)やTimex Sinclair 1500(標準RAM容量が16KBとなり、ZX Spectrumとよく似たケースに収められています)といった名称で販売しましたが、あまり売れなかったようです。
日本では、三井物産電子販売が通信販売で販売を開始しました。後に大型書店等でも取り扱うようになりましたが、前述した松下通信工業のJR-100が同時期に発売されたため、似たようなコンセプトのZX81はJR-100に市場を奪われました。後に29,800円に価格改定されましたが、それでもあまり売れなかったようです。
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シンクレア ZX81 (Wikipedia) |
https://ja.wikipedia.org/wiki/シンクレア ZX81 |
シャープは、MZ-80K系列とは別路線のMZ-80Bを発売しました。
MZ-80BのBは、ビジネスのBと言われていましたが、BIGのBから取ったとWikipediaには書かれていますね。
CPUは、シャープのLH0080A(4MHz)というZ80Aのセカンドソースです。
RAMは、64KBで、ROMは、IPLに2KBとキャラクタ定義で2KBです。
表示能力は、80文字×25行モノクロのテキストとオプションですが320×200ドットモノクロのグラフィックをサポートしています。サウンドは、1ビットD/Aによる3オクターブの単音です。
内蔵のデータレコーダは、平均2000bpsと高速で電磁制御可能(APSS機能)となっています。
MZ-80K系とは互換性はありませんが、BASICプログラムは、多くがコンバータを使って流用できたようです。
1982年11月には、オプションだったグラフィックVRAMを標準搭載したMZ-80B2をMZ-80Bと同じ価格の278,000円で発売しています。しかし、この頃には、価格が安く性能も良いMZ-2000がMZ-80B系の主力となっていました。
MZ-80K系列のパソコンは、基本的にグラフィック機能を持たずに、この後、MZ-1200→MZ-700→MZ1500と進化していきますが、MZ-80B系列のパソコンは、MZ-2000→MZ-2200→MZ-2500へと進化していきます。
また、これより後のMZシリーズ(MZ-1200以降)は、これまで開発していた部品事業部から情報システム事業部に移管されたようです。
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MZ-80B (Wikipedia) |
https://ja.wikipedia.org/wiki/MZ-80#MZ-80B |
当時の日立と並ぶ汎用コンピュータの巨人、富士通が初めて発売したパソコンです。正式名称は、FUJITSU MICRO 8です。一般向けの出荷開始は、9月頃だったようです。
富士通も他社と同じようにLKIT-8シリーズというモトローラMC6800互換CPU(富士通 MB8861N)のワンボードマイコンを発売していました。
富士通が発売していた、ワンボードマイコンがモトローラ系だったように、FM-8にもモトローラのMC6809が搭載されています。ワンボードマイコンは、自社製のCPUを売り込むためのトレーニングキットだったので、インテル系のCPUを製造していたシャープとNECはインテルやザイログのCPU、モトローラ系のCPUを製造していた日立と富士通はモトローラのCPUを使っています。
FM-8のCPUは、メインにMC68A09(1.2MHz)、グラフィック周りのサブシステムにMC6809(1MHz)と2つの6809が搭載されています。
メインRAMは、64KBでサブシステム側に5KBのRAMとグラフィックVRAMが48KBです。ROMは、BASICに32KB、ブートローダ2KB、サブシステムモニタ8KB、キャラクタ定義2KBです。
BASIC利用時は、64KBのメインRAMのうち32KBがBASIC ROMに切り替わる仕組で、電源投入前にユーザーが手動でスイッチを切替えます。
モトローラMC6809は、周辺LSIのMC6829 MMUを利用すれば2MBまでのメモリ空間を利用できるので、MC6829等のMMUを搭載すればこのようなバンク切り替えは不要なのですが、MMUの搭載や2MBのメモリ空間を扱える設計はコストアップに繋がるので、一般的な8ビットパソコンと同じようにバンク切り替え方式を採用したのだと思われます。(後のFM-11やFM-77系では独自のMMUを使用しています)
表示能力は、80文字×25行8色のテキストと640×200ドット8色のグラフィックです。
テキストV-RAMを持たないため、グラフィックとして文字(キャラクタ定義ROMに記録されているドットパターン)を描画するため、プログラムによっては先に描画されていたグラフィックが文字の部分だけ消えたり、改行することでグラフィックが上方向にズレたりといった現象が起きたようです。
おそらくモノクロならば、3プレーン使えるので重ね合わせても問題なかったのではないかと思います。
FM-8のサブシステムは、1MHzのMC6809に48KBのVRAMが接続されていますが、メインCPUからVRAMに直接アクセスはできませんでした。
メインCPUとサブCPUは、128バイトの共有メモリを介して通信を行うのですが、サブCPUが共有メモリにアクセスしているときはメインCPUが停止します。また、サブCPUを利用する場合は、サブCPUの状態を確認してアイドル状態になるまで待つ必要があります。(同期が必要)
凝ったことをしようとするとかなり面倒な方式だったようですが、FM-7の時代になるとサブシステムの解析が進みメンテナンスコマンド(通称:YAMAUCHIコマンド)が発見され、サブシステム側でプログラムを実行させたり、データをブロック転送できるなど柔軟な運用が可能となったようです。
FM-8は、外部記憶装置としてバブルカセットに対応していました。これは、磁気バブルメモリと呼ばれるもので、FM-8の他には、FM-11やシステムズフォーミュレート社のBUBCOM80、アーケードゲーム基板等で利用されました。
640×200ドットでドット単位8色のグラフィック(ライバルのベーシックマスター レベル3ではドット単位の色指定ができなかった)は、当時としてはかなりの高解像度で、それを6809のサブシステムで描画しているという点や、218,000円(ライバルのベーシックマスター レベル3は、298,000円で発売)という価格もあり、かなりセンセーショナルなデビューを果たしています。今から見ると、メインCPUが直接VRAMにアクセスできないなど、荒削りな印象ですが、富士通を日立に替わる御三家に押し上げる基礎を作ったパソコンだと思います。
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FM-8 (Wikipedia) |
https://ja.wikipedia.org/wiki/FM-8 |
現在のPC/AT互換機の祖となるパソコンです。このパソコンと5170(PC/AT)が今のPC/AT互換機の原型を形成しました。
IBMは、5150以前にもIBM 5100やその発展型であるIBM 5110、後継機のIBM 5120といったポータブルコンピュータやデスクトップコンピュータを販売していました。しかし、これらは企業向けの製品であり、パソコンには分類されません。NECの製品に例えるなら、N5200みたいな企業向け製品と考えるのがよいでしょう。
ビッグ・ブルーと呼ばれたコンピュータ業界の巨人がパソコン市場に参入するということで、パソコン市場のリーディングカンパニーだったアップル・コンピュータが"Welcome, IBM. Seriously"の見出しで始まる広告を出したことは有名な話です。
IBM PCは、開発期間が1年と短かったため、IBM製のハードやOSは使われませんでした。
多くのサードパーティを呼び込むためにオープンアーキテクチャを採用し、BIOSのソースコードも公開しました。当時でもソースコードは、著作権で保護されたのですが、クリーンルーム設計という仕様から同じ機能を持つBIOSコードを作成するという抜け穴があったため、大量の互換機が発売されてしまいます。最初期(1984年)にBIOSのリバースエンジニアリングに成功したのは、PC互換機メーカーとして有名だったコンパック(Compaq Computer Corporation、2002年にヒューレット・パッカード社に買収されました)とOSメーカーのフェニックス・テクノロジーズ(Phoenix Technologies Ltd.)です。AMI BIOSで有名なアメリカン・メガトレンズ社(American Megatrends International)は、1985年に設立されたマザーボードメーカーでしたが、マザーボード製造が高コストなアメリカから台湾へ移行していったことにより、主要なマザーボードメーカー向けにBIOSファームウェアの開発を行うようになっていきます。
この製品がヒットして大量の互換機が作られた背景には、IBMというコンピュータ業界の巨人が作ったパソコンということもありますが、1981年当時の2000ドル未満のパソコンとしては、性能と品質が高い魅力的な製品だったことがあります。現代の視点から見れば、メインメモリ16KBでフロッピーディスクドライブ無しのモデルが1500ドル以上もするコストパフォーマンスの悪いパソコンのように感じますが、1981年10月時点では高性能かつ拡張性も高い魅力的なパソコンでした。
IBM PCの開発チームは、当初CPUは、IBM 801というRISCプロセッサ、OSもIBMの研究所で開発されていたものを採用する予定だったようです。IBM 801は、当時としては驚異的な計算速度(約15MIPS、MC68000の8MHzが約1MIPSですから約15倍の速度です)を誇っていたようなので、もし、そのプロセッサやIBM独自のOSが採用されていたら歴史が変わっていたでしょう。
OSにまつわる話も有名です。
このIBM PCに採用されたOSは、マイクロソフト社が開発したIBM PC DOS(マイクロソフトの自社販売品をMS-DOSと呼称)ですが、IBMは当初、当時一番普及していたCP/Mを採用する予定でした。しかし、CP/Mの開発元デジタルリサーチ社との交渉がうまく行かず、マイクロソフトに相談します。マイクロソフトは、シアトル・コンピュータ・プロダクツの86-DOS(後のQDOS)に目をつけ、最終的に全ての権利を5万ドルで買い取りました。
86-DOSの開発者であるティム・パターソンもマイクロソフトへ移籍しています。そして、86-DOSをベースにしたPC DOS(MS-DOS)が誕生するのです。
ちなみに86-DOSは、開発者のティム・パターソンがCP/Mの使い勝手に不満を抱き、改良点を手紙に書いてデジタルリサーチへ送ったものの、返事がないためCP/Mのリファレンスを見ながら同じ動作をするi8086用の86-DOSを開発したというものです。
また、シアトル・コンピュータ・プロダクツは、マイクロソフトがIBMにOSを供与することを知らされておらず(IBMとの秘密保持契約のため)OSを安く売却してしまったため、マイクロソフトを訴えました。
最終的に100万ドルで和解したようです。
IBM PCのCPUは、インテルのi8088(4.77MHz)でメモリは、16KBからFDDは、内蔵で2基まで搭載可能でした。
カセットテープインターフェースも持っており、Microsoft GW-BasicのROMも内蔵しています。
IBM PCの最大の特徴は、グラフィック周りを独立させ、ビデオカード形式で実装している点です。
ビデオカードを交換することで、グラフィックがパワーアップするため、陳腐化しにくい構造となっています。
IBM PC/AT互換機が30年以上経った現在まで使い続けられている(勿論、現在のPCと当時のPCは全く別物と言ってもいいですが)のは、この方式だったことが大きいと思います。
当初の標準ディスプレイカードは、MDA(Monochrome Display Adapter)と呼ばれるもので、4KBのVRAMが搭載され80×25行モノクロのテキスト表示のみでした。オプション(後に標準となったようです)で16KBのVRAMが搭載されたCGA(Color Graphics Adapter)が用意されており、こちらに交換することで、80×25行、40×25行のテキスト16色または、640×200ドット2色、320×200ドット4色のグラフィックが表示可能でした。ちなみにテキスト表示のみのMDAですが、モニタの解像度としては、720×350に相当するのでHercules Computer TechnologyからHGC(Hercules Graphics Card)というMDA用モニタを利用できるディスプレイアダプタが発売されました。
サウンド機能は、7オクターブの矩形波単音です。
また、OSは、後(1982年4月)にCP/M-86も選択可能となりましたが、PC DOSよりも価格が高く設定されました。
1983年には、ハードディスク内蔵モデルのIBM Personal Computer XT model 5160(IBM PC/XT)を発売しました。このIBM PC/XTは、性能的にはIBM PCと変わりませんが、バスアーキテクチャがXTバス(後に8ビットISAとして標準化された)と呼ばれるPCバスから一部のレイアウト変更や制御信号の追加などが行われたものに変更され、拡張バススロットの本数が5スロットから8スロットへ増やされているのと、10MBまたは20MBのハードディスクが標準搭載されていました。IBM PC/XTにはFDDとHDDが標準搭載されたモデルしか存在しないため、不要なカセットテープ・インタフェースは削除されたようです。
また、OSがIBM PC DOS 2.0(MS-DOS Ver.2.0)に変更されています。CP/Mの8086版的OSだった86-DOSをベースにしたIBM PC DOS 1.0から階層ディレクトリに対応するなど根本的に作り直されています。
更に1984年には、ホビー市場向けのIBM PCjr(IBM Model 4860)を発売しています。
このパソコンは、基本的なスペックはIBM PCと同じですが、メモリは64KB(Model 4860-004:669ドル)と128KB(Model 4860-067:1,269ドル)のモデルがあり、FDD(Model 4860-004ではオプション、Model 4860-067では標準装備)が内蔵では1基までに限定され、ROMカートリッジスロットを持っています。また、RFモジュレータを内蔵し、家庭用テレビをモニタとして利用できました。
表示能力は、CGA Plus(Tandy1000のほうが売れたためTGA:Tandy Graphics Adapterとも呼ばれたようです)と呼ばれるCGAの機能に640×200ドット4色、320×200ドット16色、160×200ドット16色の画面モードが追加されました。
サウンド機能は、DCSG(SN76489)が追加で搭載され矩形波3音+ノイズ1音とIBM PCのサウンド機能も選択的に利用可能です。
キーボードは、赤外線ワイヤレスのチクレットキーボードでした。このキーボードは不評だったようです。
IBM PCjrは、発売の前年にIBMが満を持して発売する予定のホームコンピュータ・コードネーム「ピーナッツ」として噂になります。そのため、1983年にパソコンの買い控えが起きました。その現象は、「ピーナッツ・パニック」と呼ばれました。
しかし、1983年11月に発表されたIBM PCjrは、噂されていたよりも価格が高く、チクレットキーボードは、雑誌で「フルーツケーキをマッサージしているような感覚」などと揶揄され、長時間のタイピングは難しいとされました。
その上、Tandy1000シリーズなどの安価で高性能な互換機が発売されたことや、ホビーパソコン市場には、コモドール64やApple IIシリーズなどの強力なライバルがあり、商業的には失敗に終わりました。
同じ1984年には、IBM PC AT(model 5170)が発売されています。正式名称は、「The Personal Computer for Advanced Technologies 5170」で、PC/ATと略されることも多いですね。
このパソコンの特徴は、CPUにIntel 80286を搭載し、後にISAバス(Industry Standard Architecture Bus)と呼ばれることになるATバスを採用した点です。i8088を搭載したIBM PC/XTは、システムバスが8ビットだったのですが、ATバスで16ビット化したことで高速化されました。また、グラフィックもEGA(Enhanced Graphics Adapter)を搭載し、640×350ドット64色中16色の表示が可能となりました。現在でも使われているVGA(Video Graphics Array)は、1987年にIBM PS/2で採用されたもので、VGAは、EGAの後継グラフィックシステムですが、PS/2ではアダプタ形式ではなくマザーボード上に直接搭載されています。VGAのAは、従来のように「Adapter」(拡張カード)ではなく「Array」(配置されるもの)であり、ワンチップで実装されました。(しかし、PC/AT用にATバスのVGAカードも発売されています)
また、PC/ATが発売される前年の1983年に表計算ソフトの「Lotus 1-2-3」が発売されたこともあり、PC/AT(とその互換機)のキラーソフトになりました。
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IBM PC (Wikipedia) |
https://ja.wikipedia.org/wiki/IBM_PC |
IBM PCjr (Wikipedia) |
https://ja.wikipedia.org/wiki/IBM_PCjr |
IBM PCjr (外観) |
https://tsujim.nagahama.shiga.jp/retropc/ibmpcjr.jpg |
システムズフォーミュレートは、富士通から独立した渡辺昭雄氏が起ち上げた会社で、パソコン教室やパソコンの販売を行う会社でした。
BUBCOM80は、富士通と共同で開発を行ったパソコンです。
デザインも非常にFM-8に似ていますが、CPUは、ザイログのZ80A(4MHz)でグラフィックはオプションでした。
メインメモリは、64KBで2KBのキャラクタ定義用RAMがあります。
ROMは、IPLの2KBだけで、シャープと同じクリーンコンピュータだったようです。
表示能力は、テキストが80文字×25行8色でグラフィックは、オプションで640×200ドット8色です。
オプションのグラフィックVRAMは、バンク切り替えではなく、X1のようにI/O空間に配置される設計だったようです。
サウンドは、矩形波で8オクターブ単音です。
また、標準で磁気バブルメモリが付いていたようですね。
BASIC ROMが無い点や、磁気バブルメモリを標準で装備していたのは、CP/Mでの利用を想定していたようです。
しかし、BUBCOM80は商業的に失敗し、システムズフォーミュレートは、1983年に倒産しました。
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BUBCOM80 (Wikipedia) |
https://ja.wikipedia.org/wiki/FM-8#BUBCOM80 |
NECがPC-8001の上位機種として発売したパソコンです。
後に日本の8ビットパソコン市場に君臨するPC-8801mkIISRシリーズの基礎を作りました。
CPUは、NEC μPD780C-1(Z80A 4MHz相当)でRAMが64KB、N88-BASIC ROMが40KB、モニタROMが8KB、N-BASIC ROMが24KB、グラフィックVRAMが48KBという構成でした。
表示能力は、テキストが80文字×25行で、グラフィックは、640×400ドットのモノクロ、640×200ドットで8色カラー表示可能と640×400ドットのモノクロ表示ができる点でFM-8をやや上回っていました。このモードは、ワープロソフトなどで有効だったようです。
また、640×400ドットモノクロの他に640×200ドットのカラーとモノクロ3画面しか画面モードを持たず、320×200ドットのカラー2画面といったゲーム向けの画面モードが無かった点やPSGのようなサウンド機能が無かった点がホビーパソコンとしては、今一つだったようです。尤もメーカー側もスモールビジネス向けの機種として開発したのだと思います。
初代PC-8001では、64KB内にROMもRAMも同居していましたが、PC-8801はグラフィックメモリとBASIC ROMをバンク切り替えで実装しています。そのためBASIC ROMに隠れて使用できない部分のRAM(以下、裏RAM)を8000H~83FFHに写すテキストウィンドウという仕組みが実装されていたようです。具体的には、裏RAMのアドレスをI/Oポートのオフセットアドレスコントロールポート(70H)へ書き込むとそのアドレスを先頭に裏RAMの内容が8000H~83FFHへコピーされます。(OUT &H70, &Hxxのように指定します)逆に裏RAMへデータを書き込む場合は、特殊な仕組みを利用しなくても裏RAMのアドレスを指定することで書き込みができました。
サイクルスチール方式を採用していないことやPC-8001と同じようにテキストやグラフィックの描画時にCPUが停止する設計のため、動作速度やグラフィックの描画が遅いという欠点もありました。そのため、テキストの表示を無効にして書き込む高速モードがあったようです。
この欠点は、PC-8001を発展させた設計によるもので、当時はメインRAMとVRAMを共用する設計は普通のことでした。X1のような独立したテキストVRAMやサイクルスチール回路を持った設計が新しいと考えるべきでしょう。ちなみにFUJITSU MICRO系では、サブシステムのグラフィックに文字を書き込む方式のため、こういった問題は起きません。
サウンド機能は、矩形波単音のBEEP音のみです。
1983年には、フロッピーディスクを本体に内蔵できるPC-8801mkIIが発売されました。(model10:168,000円、FDD1基内蔵・model20:225,000円、FDD2基内蔵・model30:275,000円)
基本的には、初代PC-8801と同じスペックですが、サウンド機能が若干性能アップして、2オクターブ相当の矩形波単音になりました。
また、日本向けPC-8800シリーズのフロッピーディスクドライブは、インテリジェントタイプと呼ばれるものでFDCに汎用CPU(メインCPUと同じZ80互換のμPD780-1)を搭載していて、FDD操作以外の計算処理も行うことができたようです。
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PC-8800シリーズ (Wikipedia) |
https://ja.wikipedia.org/wiki/PC-8800シリーズ |
NECの子会社、新日本電気(後のNEC-HE:日本電気ホームエレクトロニクス)が開発し販売したパソコン。
当初は、PC-8001と互換性のあるパソコンを開発する予定だったようですが、ビジネス上の理由から家庭用のエントリーモデルとなったようです。愛称はパピコン。
CPUは、NEC μPD780C-1(Z80A 4MHz相当)でRAMが16KB、ROMはBASICが16KB、キャラクタ定義が4KBです。
標準で家庭用テレビに映像を出力できたため、システムクロックは3.58MHzなのかと思っていましたが、調べてみると4MHzで駆動していたようです。また、何故か新型であるはずのPC-6001mkIISRやPC-6601SRは、CPUのクロック周波数が3.58MHzとWikipedia等に書かれています。インターネットで検索してみたところでは、詳しく解説しているサイトを見つけることが出来なかったので、勝手に想像すると、PC-6001では、MC6847互換VDG(Video Display Generator)を採用しており、画面の描画中はCPUが停止していたようなので、VDGがNTSCと同期するクロックで動作していたということかもしれません。おそらく、PC-6001mkIISRやPC-6601SRでは、CPUの停止時間が無くなりノーウェイトでNTSC信号と同期できるようになったのでしょう。そのため、見かけ上のクロックは下がっていますが、ウエイトが無くなり実際の動作は速くなったのではないかと思われます。
表示能力は、テキストが32文字×16行で2色、グラフィックは、256×192ドット2色、128×192ドット4色、64×48ドット9色です。VRAMは、メインメモリと共用で標準で2画面(1面はテキスト用)、RAMを増設すると最大4面まで使うことができました。VDP(モトローラではVDGと呼んでいた)は、タンディのTRS-80 Color Computerでも採用されていたモトローラのMC6847(実際は、互換品の三菱電機製M5C6847P-1)です。
サウンド機能は、PSG(AY-3-8910)チップが搭載されており、矩形波3音(8オクターブ)とノイズ1音の発声が可能です。
このパソコンの特徴は、PC-8001やPC-8801と違いオプション不要で家庭用テレビに接続が可能で、平仮名が使え、ROMカートリッジスロットが搭載されている点です。キーボードは、所謂チクレットキーボードと言われるタイプで、ソフトによってはオーバーレイシートを使うものもありました。
また、日本のメーカーでまともな音源を標準で搭載した初めての低価格パソコンだったのではないかと思います。
1983年7月に後継機PC-6001mkIIが84,800円、11月に上位機種のPC-6601が143,000円で発売されました。PC-6001mkIIは、MSX規格が発表された直後に発売されたこともあり、NECが発売したMSX対抗機種と考えられます。
RAMが64KB標準となり、RGB出力も可能で、初代PC-6001との互換性があります。
表示能力は、テキストが40文字×20行15色のモードが追加され、グラフィックは、80×40ドット15色、160×200ドット15色、320×200ドット4色のモードが追加されました。
また、PC-6001mkIIには、漢字ROMが搭載されています。一般的なJIS第1水準ではなく小学校で習うような1024種類の漢字に限定されています。(この当時のJIS第1水準は、漢字2965文字です。しかし、JIS第1水準の漢字ROMに収録されていた全角文字は、漢字の他に非漢字453文字があったので、漢字ROMには、これらも含め約3500文字が定義されていました)
サウンド機能には、初代PC-6001でオプションだった音声合成機能が標準で内蔵されています。PC-6601は、PC-6001mkIIに加え1Dの3.5インチFDDを1基搭載し、音声合成に2オクターブの音高を加えて歌う機能が追加されています。
また、PC-6601には、アドベンチャーゲーム「コロニーオデッセイ」(冒険編のみ)やワープロ、表計算などのソフトが標準で添付されていました。
BASICのモードは、N60-BASIC (RAM 16K)、N60-BASIC (RAM 32K)、N60拡張BASIC (RAM 16K)、N60拡張BASIC (RAM 32K)、N60m-BASIC (RAM 64K)の5種類が起動時に選択可能となりました。
PC-6001では、起動時に"How many pages?"と表示されBASICで使用する画面枚数を1~4の数字で入力を促されました。3~4は、メモリを増設した場合のみ利用可能です。先ほども書きましたが、PC-6001はベーシックマスター等と同じようにVRAMをメインRAMから割り当てるタイプの設計でした。標準では、2画面まで持て、うち1面はテキスト専用面でRAMを増設すると最大4画面まで持てます。"How many pages?"で入力する数字は、BASICで利用する画面数のことで、入力する数字によってBASICで使えるフリーエリアも変わります。また、テキストとグラフィックを重ね合わせて表示することはできず、表示画面を切り替えて表示する方式だったようです。
PC-6001mkII以降では、"How many pages?"の前にBASICのモードを選択するメニューが表示されます。更にFDD使用時は、"How many pages?"の後に"How many files?"という最大ファイル数(メモリに確保するファイルバッファやファイルの同時オープン数)の入力があったようです。"How many files?"は、PC-8800シリーズやPC-9800シリーズなどのN88-BASIC系でも起動時に入力を促されます。
1984年12月には、PC-6001mkIISR(89,800円)とPC-6601SR(155,000円)が発売されました。
PC-6001mkIISRは、FM音源を搭載し、PC-6601と同じ歌う音声合成機能が追加されています。
テキストも80文字×20行15色が追加され、グラフィックも640×200ドット15色中4色が追加されました。
専用モニタを使用した場合、スーパーインポーズ機能が使えました。
PC-6001mkIISRとPC-6601SRの違いは、PC-6601SRは、本体がキーボード分離のセパレートタイプで、1DDのFDDが本体に一基内蔵しているというだけです。ただ、この本体内蔵のFDDが曲者で、PC-6600シリーズでは、コストダウンのためにFD制御用のサブCPUが無いノンインテリジェントタイプだったため、直接FDDを操作するプログラムでは、PC-6001mkIISRとの互換性が保てませんでした。
また、PC-6601SRのキーボードは、赤外線のワイヤレスキーボードでした。
PC-6601SRの愛称は「Mr.PC」でキャッチフレーズは「六本木パソコン」でした。
当時、六本木パソコンの意味がよくわかりませんでしたが、今インターネットで意味を検索してみてもよくわかりませんね。有力なのは、PC-6601の型番が6001から6601になったことの経緯として、当時、「六本木六丁目計画」という大規模な都市計画が発案され、66再開発と呼ばれていたことから、PC-6000シリーズを再開発したという意味でPC-6601という型番を付けて発売されたと言われていますが、PC-6601SRの「六本木パソコン」というキャッチフレーズは、その流れで決められたという説です。
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PC-6000シリーズ (Wikipedia) |
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松下通信工業株式会社(1958年に松下電器産業より分離)により、ナショナルブランドで発売された家庭用パソコンです。
このパソコンは、シンクレア・リサーチのZX81とコンセプトが似ており、主にBASIC学習用として作られたパソコンでした。
JR-100のCPUは、富士通のMB8861(895KHz)というモトローラMC6800互換CPUで、RAMが16KB、VRAMが1KB、ROMはBASIC等に8KBでした。
表示能力は、32文字×24行のモノクロのテキスト表示のみで、当時のパソコンでは一般的だったカタカナ表示もできませんでした。その代り、64種類のグラフィック文字と32文字分のPCG機能があり、ユーザーが文字定義可能だったようです。
また、BASICからは利用できなかったようですが、矩形波単音のサウンド機能があったようです。
キーボードは、チクレットキーボードでZX81のメンブレンキーボードよりは、マシな印象でした。
ライバルのZX81に比べ、ナショナルブランドということや、RAMが16KBだった点、キーボードが良かった点などもあって、数万円高い値付けだったにも関わらず、JR-100のほうが売れました。勿論、各地に販売店を持つ販売力によるところが大きかったのでしょうけど。
1982年末には、JR-200を79,800円で発売しました。
このパソコンは、JR-100との互換性はありません。
CPUは、松下のMN1800Aです。動作クロックは、正確な数字が見つかりませんでした。このCPUは、Wikipedia等には、モトローラのMC6802相当とあります。JR-100に搭載されていたMB8861もMC6800を拡張したMC6802相当だったらしいので、クロックが違うだけで同系統の可能性が高いです。
MC6802は、MC6800の拡張CPUでピン配列に互換性が無いようなのですが、MN1800AはMC6800とピン互換みたいなんですよね。MC6802のクロックは、1MHzだったようなので、MC6802相当というのが本当なら1MHzだったのではないでしょうか。(1MHzじゃなかったとしても大きくは違わないかと)
※ 後でいろいろなサイトを巡って確認してみたところ、JR-200のCPUクロックは、可変だったようです。CPU自体は、1.5MHzのものでCRTCの動作によってクロックが変化するとのこと。実質的には、0.6~1.3MHzくらいで動作していたようです。
RAMは32KBで、VRAMが2KB、PCG RAMが2KB、ROMは、BASIC等に16KBになりました。
表示能力は、カラーが使えるようになり、32文字×24行8色のテキストと64×48ドット8色のセミグラフィック機能があります。PCGの定義数も倍の64文字となり、JR-100では使えなかったカタカナの表示が可能になりました。
サウンドも追加され、5オクターブ3音の音楽演奏が可能となりました。
ちなみにサウンド機能は、PSGやDCSGのような専用の音源チップを搭載しているわけではなく、MN1271という松下のI/OインタフェースチップをAN7117というアンプに接続して発声していたようです。
MN1271は、プリンタのパラレルインタフェース、カセットテープデータレコーダやオプションのRS-232Cのシリアルインタフェースにも使われています。
JR-200は、1983年1月に「Panasonic JR-200U」という名前で北米やヨーロッパでも発売されたようです。
また、JR-200の広告には、ナショナル音声認識パナボイス「JH-600」(135,000円)というポケコンのような形状の周辺機器(?)が載っていました。当時のパソコン雑誌の1983年9月号で確認したところ、JR-200にRS-232Cで接続するとBASICのコマンド等を音声入力できると書いてあります。RS-232Cユニットやマイクロホンは別売です。それ以外の機能として電卓(音声入力可能)やメモ帳アプリが搭載されていたようです。
隣のページには、JR-800(128,000円)というハンドヘルドコンピュータ(外観は大型のポケコンに近い印象)が載っていました。8行表示の液晶を搭載しており、RAMが16KB、ROMが20KBで、この製品もJH-600を接続して音声入力が可能だったようです。
1984年には、キーボード分離のセパレートタイプのJR-300が159,000円で発売されたようですが、このパソコンは幻のパソコンと言えるような代物でした。
主に教育用パソコンとして学校へ納入され、一般向けにはごく限られた台数しか発売されなかったようです。
仕様も今までのモトローラ系CPUから一転、ザイログのZ80を採用し、専用モニタでスーパーインポーズなど、まるでシャープ X1のようなスペックになっています。
CPUは、Z80A(4MHz)でJR-200互換モード用にサブCPUとしてMN1800Aも搭載しています。RAMが64KB、VRAMが48KBです。サブCPU用にも16KBのRAMと4KBのビデオRAM、2KBの共有RAMがありました。
ROMは、IPL等に8KBとJR-200用のBASIC ROMが16KB、サブCPU用に16KBのIOCSがありますが、JR-300モードでのBASICは、テープ等から読み込むクリーンコンピュータだったようです。
表示能力は、JR-300モードでは、テキストが80文字×25行8色、グラフィックが640×400ドット・単色、640×200ドット・8色、320×200ドット・単色3画面です。この画面モードは、カタログに掲載されている内容ですが、48KBのVRAMがあるのに320×200ドットでモノクロ3画面のみだったのでしょうか?
サウンドは、8オクターブ3和音、ノイズ1音のPSGが搭載されていたようです。
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JR-100 (Wikipedia) |
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JR-200 (雑誌広告) |
https://tsujim.nagahama.shiga.jp/retropc/jr-200.jpg |
BBC Micro(愛称は、"the Beeb")は、エイコーン・コンピュータがBBC(英国放送協会)のBBC Computer Literacy Project(BBCコンピュータ・リテラシー・プロジェクト)のために設計・製造した8ビットホビーパソコンです。
BBC Computer Literacy Project(BBCコンピュータ・リテラシー・プロジェクト)というのは、1982年1月に開始されたプログラミングやパソコンの利用法を視聴者に伝えるためのプロジェクトです。
BBCは、このプロジェクトで、「The Computer Programme」などの番組を制作しています。
「The Computer Programme」は、YouTubeなどに当時の番組動画が投稿されていますので、興味のある方は視聴してみてください。(検索サイトで検索すれば見つかります)
エイコーン・コンピュータの創始者の一人である、クリス・カリー氏は、元々、シンクレア(当時の社名は、Sinclair Radionics)の技術者でした。経営難に陥ったSinclair Radionicsは、1976年にイギリスの国家企業庁に買収されますが、このときクライブ・シンクレア氏は、カリー氏と共に別会社のSinclair Instrumentへ移籍しました。その翌年、Sinclair Instrumentは、Science of Cambridge(SoC、後のシンクレア・リサーチ)と社名を変更します。
1977年、SoCでカリー氏は、National Semiconductor社のCPU、SC/MPを使ったMK14というマイクロコンピュータキットを開発しました。カリー氏は、さらなるマイクロコンピュータの開発を望みましたが、シンクレア氏は、それを認めなかったようです。(シンクレア氏自身は、コンピュータに興味がなかったようで、携帯型の小型テレビや小型電気自動車の開発に執着していたようです)
1978年、カリー氏は、友人のハーマン・ハウザー氏と共にCambridge Processor Unit Ltd (CPU) という会社を起ち上げました。そして、CPU社で開発した製品を販売するために設立されたのがエイコーン・コンピュータだったようです。(設計と製品販売を別会社にすることで、リスクを分散した)CPU社は、エイコーン・コンピュータが有名になっていくに従い、開発もエイコーン・コンピュータで行うようになったため、単なる持ち株会社となってしまったようです。
カリー氏は、SoCを退職しましたが、エイコーン・コンピュータに合流するのは暫く経ってからだったようです。その後、SoCはSinclair Computersと社名を変更し、カリー氏の提案を否定したにも関わらず、1980年にZX80というホームコンピュータを発売しています。
後にグランディ・ビジネス・システムが発売したNewBrainという機種があったようですが、この機種は、国家企業庁に買収されたSinclair Radionicsが開発していたポータブルコンピュータで、シンクレア・リサーチがZX80を開発したときにNational Enterprise Board(NEB:国家企業庁)の子会社Newbury Laboratoriesに移管されたようです。そのため、英国貿易産業省(DTI)がプッシュしていた機種だったようで、BBCコンピュータ・リテラシー・プロジェクトもこの機種をターゲットに計画していたようです。しかし、Newbury Laboratoriesが製品を予定通り生産できないことが明らかになり、BBCコンピュータ・リテラシー・プロジェクトは延期しました。
また、エイコーン・コンピュータは、1979年にAcorn System 1というモステクノロジーMOS6502を搭載したワンボードマイコンをリリースした後、1980年にAcorn AtomというMOS6502搭載の8ビットパソコンを発売していました。
当時のイギリスには、ZX80でヒットを飛ばしていたシンクレア・リサーチ(この頃の社名は、Sinclair Computers)があり、BBCも当初は、クライブ・シンクレア氏に話を持ちかけたようです。
シンクレア・リサーチは、1981年に発売予定だったZX80の後継機ZX81を提案しましたが、BASIC学習程度にしか使えない貧弱なZX81をBBCは選択しませんでした。その他にもTandy TRS-80 Color Computerの互換機を製造していたDragonData社や1982年にOric-1を発売するTangerine Computer Systemsなども候補に挙がっていたようです。
結局、エイコーンがAcorn Atomの後継機として開発していたAcorn Protonが採用され、BBC Microとして発売されることになりました。
ちなみにNewBrainは、グランディ・ビジネス・システムへ売却されGrundy NewBrainとして1982年に発売されました。しかし、翌年、グランディ・ビジネス・システムは資金繰りが悪化し、オランダのTradecom社に買収されました。そして、オランダの学校などに学習用パソコンとして販売されたようです。
BBC MicroのCPUは、モステクノロジーのMOS6502(2MHz)で、「Tube」というセカンドプロセッサのインタフェースを持っています。Tubeにプロセッサを装備すると追加したプロセッサがメインCPUとして動作し、MOS6502は入出力処理用のプロセッサとして動作するようです。
RAMは16KBのModel Aと32KBのModel Bがありました。ROMは、MOS(Machine Operating System)に16KB、BASICに16KBです。BBC Microのメモリバスは、CPUクロックの2倍の4MHzで動作しており、CPUとビデオ周りが交互にアクセスできるようになっていました。
表示能力は、テキストが80文字×32/25行2色~20文字×32行16色、グラフィックは、640×256ドット2色~160×256ドット16色までの複数のモードがあります。
モード0~モード7の8種類の画面モードがあり、画面の解像度や使用する色数によってメモリのフリーエリアが変わります。(独立したVRAMを持たないため)
画面モード |
テキスト |
解像度 |
色数 |
RAM使用量 |
画面タイプ |
---|---|---|---|---|---|
0 |
80桁×32行 |
640×256ドット |
2 |
20KB |
グラフィック |
1 |
40桁×32行 |
320×256ドット |
4 |
20KB |
グラフィック |
2 |
20桁×32行 |
160×256ドット |
8 |
20KB |
グラフィック |
3 |
80桁×25行 |
640×200ドット |
2 |
16KB |
テキスト |
4 |
40桁×32行 |
320×256ドット |
2 |
10KB |
グラフィック |
5 |
20桁×32行 |
160×256ドット |
4 |
10KB |
グラフィック |
6 |
40桁×25行 |
320×200ドット |
2 |
8KB |
テキスト |
7 |
40桁×25行 |
480×500ドット |
8 |
1KB |
テレテキスト |
サウンドは、テキサスインスツルメンツのSN76489(DCSG)が搭載されており、7オクターブ3音、ノイズ1音だったようです。
BBC Microは、教育用コンピュータとしては数多く販売されたようですが、家庭用ホビーパソコンとしては、価格が高いこともあってシンクレア・リサーチのZX Spectrumや米コモドール社のCommodore 64、イギリスの大手家電メーカーであるアムストラッド社のAmstrad CPCなど、同世代のライバル機に比べるとシェアという点では一歩劣っていたようです。
それでも最終的に150万台程度販売されたようです。(ZX Spectrumが約500万台、Amstrad CPCが約300万台、Commodore 64は、アメリカを中心に約1700万台販売されたようです)
イギリスのホームコンピュータとしては、48KB版が175ポンドで発売されたZX Spectrumや299ポンドで発売されたAmstrad CPC464(データレコーダ内蔵、カラーモニタセット)に比べ、Model Bで375ポンドとやや高価でしたが、頑丈な筐体と多種のコネクタを持っており、拡張性に優れていました。
また、1985年には、BBC Microのメモリを64KBに拡張したModel B+を発売しました。
翌1986年には、上位機種BBC Masterを発売。
BBC MasterのCPUは、米Western Design Center社のWDC 65C02(2MHz)というMOS6502のCMOS版です。RAMが128KBまたは512KBのモデルがあり、ROMも128KBに拡張されていました。
BBC Masterは、イタリアでもOlivetti Prodest PC 128 Sとして販売されました。ケース形状が3.5インチFDDが搭載された小型のプラスチックケースとなり、拡張性が一部廃止され、イタリア向けにローカライズされています。
ちなみにOlivetti Prodest PC 128という一文字違いの機種もありますが、こちらは、フランスのThomson MO6の互換機です。
この後、エイコーン・コンピュータは、32ビットRISCプロセッサを搭載したAcorn Archimedesシリーズを開発・販売していきます。(Archimedes:アルキメデス、古代ギリシャの科学者アルキメデスから命名されたと思われます。ちなみに香港の会社VTechからSocratesという名前のゲームコンソールが1988年に発売されていますし、台湾のTatung CompanyからTatung Einstein TC-01/256というハードウェア的にMSX/MSX2と同等のパソコンも発売されていましたので偉人の名前を冠するハードウェアはそれなりにあったのではないかと思います)Archimedesシリーズも教育市場では強かったのですが、高価だったこともあり、あまりシェアを獲得できなかったようです。
その後は、チップメーカーとしてARMアーキテクチャのプロセッサを現在でも開発しつづけています。(スマートフォンやタブレットのCPUは、ほぼARM系です)
サイト名 | リンク |
---|---|
BBC Micro (Wikipedia) |
https://ja.wikipedia.org/wiki/BBC_Micro |
レトロパソコン(基礎知識編) |
レトロパソコン(機種別解説編) ~1970年代~ |
レトロパソコン(機種別解説編) ~1982年~ |
レトロパソコン(機種別解説編) ~1983・1984年~ |
レトロパソコン(機種別解説編) ~1985年~ |
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